ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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食の安全とは、実際のところ、いったいなんだろうか。

この数年間、真剣に食の安全ということを考えてきたつもりではある。

 

まあ、あくまでつもりのレベルかも知れないが。

 

なんやかんやと本を読み漁ったり、その筋に通じる人に教えを請うたり、あるいは実際に自分で考えるところのより良い食事に変えてみたり、わりにまともな食生活はしているつもりである、つもり。

 

ちなみにより良い食事というのは、パーフェクトな無農薬とか、完全に放射能汚染が皆無のものだとか、あるいは一切の添加物を排除するとか、そこまでワンハンドレッドパーセント何が何でも徹底しているわけではない。

 

まあもし出来るなら、そのほうがもしかしたら安全かも知れないが、実際問題としてそんなことは今の日本では無理だと思う。もちろんどこぞの上の方のブルジョワジーな層がお金に物を言わせれば、あるいは可能かもしれないけれど、いまのぼくには到底無理だし、そしてそれはちょっと筋が違った話である。

 

まあぼくに出来ていることはと言えば、極力(あくまで極力)農薬を使っていないものを食べるようにしていることとか、添加物などに関しても同じく、意味不明な名前のものが添加されているものは極力食べないようにしていることとか、そして、外食はほとんどしないこととか。

 

外食をしないことに関して言えば、ぼくがこの一年間で外食した回数は、実に数回、理由は旅行中だったからであるけれど、それは気を付けているとかそういうことではなくて、家で作って食べるごはんが一番美味しいからである。

 

食べることが三度の飯より好きだと言ってしまうほど食べることを大切にして生きているぼくとしては、美味しいごはんが食べたければ家で作って食べろ!と強く言いたいのである。もちろん、とんでもない高級なこだわりの食材を買ってきて、八時間も九時間も料理に時間を費やしているわけではない。

 

なるべく地元の新鮮そうな食材を安く手に入れてきて、時には知り合いに分けてもらったりして、それを塩とか醤油とか味噌とかいったごくごく基本的な調味料を使って、自分とかあるいは連れの為に一生懸命に料理する。

 

そういう家のごはんに、どうあがいても外食が勝てるわけはない。

 

外食を否定するわけではないが、ぼくはそういう生活を選んでいるわけで、じつはそういったシンプルなことこそが、食の安全なんじゃなかろうかと思うに至るわけである。

 

効果のほどはという部分だが、自身の体調の劇的な変化を身をもって感じているわけでは、残念ながらない。まあ病気はほとんどしなくなったような気がするし、だからもちろん医者にもいっさいかからないけれど、尿酸値は高い。ただそれが食事のせいかどうかはよくわからない。ただ、比較的まともなものを食べていると、体がおかしなものの進入を拒絶する気はする。まず美味しいと思わないとか、食べた後に絶対的に体の調子が悪いとか、体どころか気分が荒むとか。

 

でも、シンプルではない食事、ある意味では危険な食事を慢性的にしている人々が山のようにいて、そういう人々は体を自衛する機能が麻痺してしまうのではなかろうか。麻痺するどころかそれを通り越して、危険な食事に支配されいるのではなかろうか。

 

だから某ピエロのキャラクターが踊るファーストフードチェーンが、毎日毎日人で溢れかえっていたりするのだろう。ぼく自身は、もうあそこのハンバーガーなんて十数年ほど食べてない、なぜなら食べると体調がおかしくなるからであるし、もしいま食べても一切美味しいとは思わないはず。

 

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けっきょく日本は食の多様化が行き過ぎてしまっていて、ごはんに対する考え方がなかば狂っているのだろう。

 

ごはんって、いったいなんだっけな、というのが食の安全の基本だろう。

 

「朝はファーストフード、昼もファーストフード、もしくはコンビニやらファミレス、三時にスナック菓子やチョコレートを貪って、夜は出来合いのお惣菜か、あるいは外食でフレンチにイタリアン、あるいはまたファーストフード、帰りにコンビニに寄っていろいろ食べるもの買って、家に帰ってきてカップラーメン・・・」

 

文字で書くとアホみたいだけれど、無意識のうちにそういう食生活をこなしている人は多いと思う。そりゃあ、安全ではないだろうし、ごはんの基本から外れちゃってやしないかと少し思う。

 

だから食の安全っていうのはまず、絶対的に毒の摂取を避ける前に、ごはんってなにかに立ち戻ることだろうと思うわけである。

 

ぼくはこの頃、朝は米と味噌汁とぬか漬け、昼は食べないことが多くて、夜は日本酒のつまみに菜のおひたしやら、豆腐やら、まあ肉や魚もそこそこ食べるけれど、そんな風なごはん。

 

そんなに毎日あまり代わり映えのしないシンプルなごはんだけれど、自分で素材を買ってきて自分で作っている。自分が何を食べているのか理解しているし楽しんでいる。そして美味しい。自分で、これがいわゆるごはんだと思って、ごはんを食べている。

 

もちろん、前述のとおり、可能な限り極力、毒は避けるが、農薬を使っている米や野菜を食べていることもあるし、気付かずに大いなる毒物を食べている場合もあるだろうけれど。

 

まあでも、食の安全、繰り返しになるが、まずはごはんってなんだと、そういうことじゃないのだろうか。

 

本当は自分で野菜育てたり、魚獲りに行ったり、獣を狩りにったり、そういうところが根本だろうけれど、それはまた追々・・・。

 

 

 

 

月白貉