ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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天井の足跡

「ねえ、ヨシは、小学生の時のさ、廊下の天井の足跡のこと、覚えてる?」

 

10年間勤めていた会社をつい一週間前に辞めたヨシオが、気晴らしの一人旅に選んだのは、東京だった。

 

ヨシオの出身は埼玉県の端で、東京といえば正に目と鼻の先だったのだが、ヨシオは40歳になる今日の今日まで、一度として東京に足を踏み入れたことはなかった。それは特にヨシオが東京を毛嫌いしているとか、あえて東京を避けていたためではなく、多くの事柄は結局のところ、ちょっとしたタイミングの食い違いによって成り立っている。

 

小学六年生の時、ヨシオは母親の意向で中学受験をする羽目になった。当時ヨシオが通っていた埼玉県の田舎町にある小学校で、中学受験をする友だちなんてものは一人としていなかった。だからおそらくヨシオの周りの友だちは、中学受験と言われても、それがどんなものかも知らなかっただろうし、知りたいとも思わなかっただろう。

 

ヨシオの地元では、小学校を卒業すると、皆あたりまえのように地元の決められた中学校に進学した。それぞれの思いや意志などは全く関係なく、地区で区切って振り分けられて、そのままベルトコンベアーのようなもので、ゴロゴロと運ばれてゆく、今思えばなんとなくそんなイメージだったし、そこに何かの疑問符が介在するようなことはなかった。

 

ただヨシオは、みんなとは別の区分けをされ、別のベルトに乗せられた。もちろん周囲の友だちが、そのことでヨシオを差別するようなことはなかったのだが、ヨシオは自分がひとりどこか別の場所に運ばれてゆくのがひどく寂しかったし、その場所はひどく空気の薄い場所なんじゃないのかと感じていた。

 

実質は目指していた東京都内の中学には到達せずに、ベルトの途中でことごとく落ちてしまい、ほとんど形ばかりの試験が存在するだけで、お金を出せば入れるような私立中学に通うことが決まった。それはヨシオが住んでいる田舎よりもさらに奥にある田舎の私立中学校で、ヨシオは正直いって、果たしてそんなところに通う必要があるのだろうかと、小学生ながら強い疑問を感じていた。

 

母親にしてみれば、学校側に息子の中学受験のことを伝え、いろいろと他の生徒にはない特例を自分の息子に要求した手前、受験に失敗したからといって、おいそれと地元の中学校に息子を行かせるわけにはいかなかったのだろう。

 

結局ヨシオはその私立中学に通い、その付属校で同じ地域にある高校と大学に何の試験もなくエスカレーターかエレベーターにでも乗るようにして進学し、大学の教授の推薦で、その地域よりもさらに奥地にある建設関係の会社に就職した。けれどその会社は肌に合わず一年ほどで辞めてしまい、それからはいくつかの職場を転々として、気が付けば40歳になっていた。そして今の自分が求めていることの意味を失いかけ、ふと思い立って勤めていた会社に辞表を提出した。

 

その会社が嫌だったわけではないが、好きだったわけでもなかった。そんな宙空に浮かんでいる自分に改めて気付いたヨシオが瞬間的に求めたものは、自分に立ち戻り立ち向かうという漠然としたものだった。

 

会社を辞めたのと同時期に、付き合っていた女性との縁も引き千切れてしまった。

 

それ以前にも何人かの女性と交際をし、何年か同棲したこともあったが、今まで一度も誰かと籍を共にしたことはなかったし、いつも最後の時は、何かざらついた質感の軽い切り傷を残すような幕切れだった。

 

モエと偶然に、もしくはおそらくタイミングの一致で再会したのは、上野駅の広々とした改札口だった。

 

モエは小学校の六年間を通して、ヨシオとずっとクラスが一緒だった友だちのひとりで、まあ正確に言えば、小学生の頃に同級生の女の子を友だちと呼ぶかどうかはわからないが、お互いのことは中間値以上に認識していた。

 

彼女は当時、勉強も運動も他の誰よりも頭一つくらい秀でていて、さらには背が高く整った容姿をしていて、すごく大人びた女の子だった。だから学校の中でもすごく目立っていた。ただ、彼女はそういうことがひどく息苦しいんじゃないのかと、ヨシオはずっと思っていた。

 

「ヨシオくん、あっ、ヨシでいいかな、ヨシがこっちに戻ってきてるって話は、ちょっと知ってたんだけど、まさか東京で会うとはね、ひさしぶりだね。」

 

ヨシオは小学生の頃、ずっとモエのことが好きだった。もちろんその頃に芽生えるそういった感情が、本当はどんな種類のものなのか、おそらくは当時にタイムスリップでもしないかぎり説明は出来ない。だたそれでも、数十年ぶりのモエとの再会でヨシオがまず感じたことは、彼女には今でも、凄まじい吸引力があるということだった。

 

「ヨシは、きょうは買い物にでも来たの?」

 

「いやちょっと、おれ仕事辞めてさ・・・、暇ができたから旅行でもしようかと思って。」

 

「あっ、そうなんだ!一人旅かあ、なんかいいなあ、そういう感じ。じゃあこれから新幹線に乗り継いで、」

 

「いや、目的地は東京でさ・・・東京旅行をしようと思って。」

 

「はははは、そうかあ、なんかヨシは、あの頃とまったく変わってないんだね、いや変ってはいるんだろうけど、なんて言うか・・・まあいいや、でも元気そうだね。」

 

「モエは、買い物?」

 

「わたしはねえ、デート。と言いたいところだけど、時々ひとりで東京をぶらつきにくるの。別に何か買うわけじゃないし、食べるわけでもないけど、地元にいると息が詰まっちゃうから。だからまあ、東京旅行と同じだね、きっと。」

 

モエはそう言って自分の足元を見下ろしながら笑った。

 

「もし時間があるなら、いやもしモエがよければだけれど、どこかで少しお茶でもどうかな?おれ、朝からまだ何も食べてなくて、どこかで何か食べようと思ってるんだけど。」

 

「もちろん、いいに決まってるよ!わたしも同じく、朝から何も食べていないのです、そしてどこかで何か食べようと思っていたのです、奇遇ですね、ヨシオくん。」

 

「ははは、そうか、奇遇だね。」

 

 

 

 

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月白貉