美味しい映画と不味い映画、映画を食べるということ -『映画の味』起筆への序章として[映画の味]
映画の良し悪しの基準は、人それぞれだと思う。
現時点(2016年3月6日現在)において、いったいこれまでに製作された映画の数がどのくらいにのぼるのか、ぼく自身はまったく把握してはいない。おそらくは、今日から死ぬまでの間、ずっと映画を観続けたとしても、到底すべてを観切ることは叶わないくらいの数はあるだろうと、薄っすらと、そしてなんとなくではあるが、そのくらいの果てしない数に思いを馳せる。
まあだからといって、そんな膨大な数の映画のうち、ぼくが今まで何本の映画を鑑賞したかなんていうことにはまったく興味がなく、もちろん自身もまったく把握していないので、結局はそういう数なんてものは、さして意味など持たないのである。
自分が出会った限られた映画の中で、それをごくごく個人的な視点と楽しみを持って如何にして堪能するかということがもっとも大切なところであって、それはおそらくは、死ぬまでどうやって生きてゆくのかということにも通じるところがある。
能書きはこのくらいにして、ぼくも、もちろん多くの人々と同じように、自分の「映画ものさし」を持っていて、たぶん「ものさし」だけじゃなくて、いろいろな測定道具を持っていて、ぼくなりの映画の良し悪しをぼくなりに決めて、そしてぼくなりにほくそ笑んだり、ツバを吐いたり、どしゃぶりの雨の中で号泣したりしている日々である。
そんな中で、映画を楽しむぼくなりの視点のひとつに「食」というものがあり、それはなかなか大きな部分を占めている。
映画の中に出てくる食事のシーンが如何にそそられるものかによって、あるいはそのシーンで如何に腹が減るかによって、ぼくはその映画の良し悪しをおおよそ判断していると言っても過言ではない。
そして優れた食事シーンを描きだしている映画があれば、さながら旨い定食屋で飯をおかわりしてしまうように、あるいは飯だけではなく定食全体を、メインのおかずである例えば鶏の唐揚げをはじめとして、豆腐とわかめの味噌汁も、副菜であるほうれん草のおひたしも昆布とちくわの煮物も、そしてぬか漬けのきゅうと大根も、すべて丸々おかわりして、そして再びもう一度おかわりして、腹がはち切れてしまって「もういらない!」と言って後ろにひっくり返るようにして、何度も何度もその映画を観返してしまうのである。
定食屋の飯に例えたのでついでに言うと、浴びるようにして死ぬほど食べた唐揚げ定食だけれど、なんだかんだと次の日も食べたくなって、またその同じ定食屋で同じ唐揚げ定食を注文して、同じようにおかわりしてしまうということもざらにある。
まあそうなってくると、やはりそういう映画をいつでもおかわり出来るようにと買い込んでしまいたくなる。最近では物欲が減ったせいもあって、昔のように映画のDVDを買い漁ることも減ったが、ちょっと前までは都内の中古ショップをハシゴしながら、DVDが一本500円均一!などと書かれたコーナーを必死でかき混ぜて、おかわり映画を発掘したものである。
一本500円となれば、家庭的で良心的な定食屋の唐揚げ定食の相場ほどにも捉えられるから、もうそれ一本買えば、ほぼ未来永劫、死ぬまで無限に、好きなときに心ゆくまで、唐揚げ定食ばりに映画が一本丸々おかわり自由となるわけである、なんてお得なことだろうか!
そういう基準で映画を観てみると、それは「おもしろいなあ」とか「素晴らしいよ」とか言うよりも、「美味しいねえ」とか「よい味だこと」なんて表現が、もしかしたら似合っているのかもしれないし、そうなってくると観ているのではなく、食べているのに近いわけである。
まあそんなわけで、ごくごく自己満足的な「食」という基準から、ぼくが今日まで何度も何度もおかわりしてきて、当然明日からも再びおかわりするであろう映画の話をしてみようかと思い立ち、おととい来やがれコンチクショウと重い腰を持ち上げて、まずはここにその序文を記すこととする。
さて副題を何にしようかと考えるが、「映画の味」とでもしておこうか。
image source : By 日本映画社 Create a screenshot by Ogiyoshisan (Last edited April 9, 2013) (Screenshot) [Public domain or Public domain], via Wikimedia Commons
月白貉