ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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どこまでも

ぼくは東京に住んでいる頃、つらいことや、やりきれないことや、どうしていいのかわからないことがあると、あてもなく、ひたすら街を歩きました。

 

別にその行為に、気分の浄化作用があるとか、そんなことはどうでもよくて、ただ歩きたくなるんです。

 

なんでだろう?

 

何かを探してるのかなあ。

 

ひとりぽっちで、ずいぶん街を歩きました。

 

東京を離れてからも、今も変わらず、歩きたくなるといつだって、歩いています。

 

ぼくの移動は、今でもすべて自らの足です。

 

子供の頃みたいに、いつでも歩いてどこかに行きます。

 

子供の頃って、移動は足しかないから、自転車もあるかもしれないけれど、ぼくは同級生よりも自転車に乗れるようになるのがずいぶん遅くて、いっつもいっつも自分の足だけで、歩いたり時には走ったりして遊びに行っていました。

 

でもそれだけだって、どこまでも行けるんです。

 

自分が行けると思った場所までは、どこまでも。

 

あの頃は、帰る時間のことなんか考えなかったし、どうでもよかったし、決められた時間を過ぎてからが、ほんとうに楽しい時間でした。

 

いまでもぼくは、あの時の感覚と何にも変わらないんだと、そう思います。

 

 

 

どこまでも (主婦の友はじめてブック―おはなしシリーズ)

どこまでも (主婦の友はじめてブック―おはなしシリーズ)

 
どこまでも行けるさ

どこまでも行けるさ

 

 

 

月白貉