拍子木
「あの火の用心の拍子木、この間から家の前を通るけど、ちょっと気になってることがあるのよね。」
「たぶん、おれも同じことが気になっている。」
12月に入って、夕方から夜にかけて外から拍子木の音が聞こえてくるようになった。その地域ごとに町内の持ち回りで決められた当番の人間が数人、拍子木を打ち鳴らしながら町内を練り歩いて火の用心と防犯を兼ねての夜回りをするという、日本では昔から、そしておそらく多くの場所でこの時期になると見られる風習である。
あの「カ〜ン、カ〜ン!」と遠くから響く音を耳にすると、もうそんな時期なんだなあとなにかポワンとした灯りのようなものが体の中に灯る思いがする。
ぼくはこの土地に越して来てまだ間もないため町内会には入っておらず、当然その持ち回りの当番にもなってはいない。そのため、夜回りのルートがどんなふうに決められているのか、どういうシステムで夜回りをしているかという詳細のことはまったく知る由もない。ただどうやら、今住んでいる家の前がこの町内での夜回りのルートになっているらしく、毎晩ではないのだがこの12月に入って週に数回、いつも同じくらいの時間帯になると外から拍子木の音が響いてくることがわかった。
ぼくが子どもの頃の地元の夜回りの拍子木には、「カ〜ン、カ〜ン!」という拍子木の後に「ひのよ〜じんっ!」という掛け声が付いていたことを思い出す。けれど、この土地のこの町内では拍子木の音だけで掛け声は無いようだった。
ある日、妻とともに少し早めの夕食を食べていると、外からいつものように拍子木の音が聞こえてきた。
「カ〜ン、カ〜ン!」
「カ〜ン、カ〜ン!」
「ねえっ、聞いたでしょ!!一回目の拍子木の音が聞こえてから、次の拍子木の音が聞こえるまで、あの数秒の間になんであんな遠くに移動してるの・・・?オカシイでしょっ!!」
「うん、おかしい、この前からぼくも思ってたんだ・・・。最初は自転車にでも乗ってるのかと思っていたけど、それだとあんなに勢いよく拍子木は叩けないだろうし、ましてや車に乗って夜回りってこともありえないだろうし、なんであんなにすごい速度で移動してるんだろうって不思議に思ってたよ。」
「選挙の時みたいに車にスピーカーを付けてさ、録音した拍子木の音を流しながら走り回ってるのかしら?」
「まさか!それじゃあまったく本質からずれてしまっているし情緒も何もあったもんじゃない。もし本当にそんなことをやってるとしたらずいぶん異常だよ・・・。」
ふたりはしばらくお互いにそのことについて頭をひねりながら黙々と食事を続けていたが、どうやら妻は何か思いついたらしく、目に見えない電球のようなものが頭の上にピカッと出現してから、ぼくの顔を見て目を見開いた。
「今度、外に出て見てみようよ!だいたい時間帯もわかっているし、ちょっと外で待っていれば実際にこの目で見られるでしょ、いったいどんな風に夜回りがされていて、なんであんなスピードで移動していくのかってことが!」
「まあ、そりゃあ見たらわかるだろうけれど、この辺りはあまり住宅街でもない山の中だし、家の向かいにはでっかい雑木林が広がってるし、この時間はけっこう真っ暗だよ・・・なんだかちょっと怖いなあ・・・もしおかしなさあ・・・。」
「なによ〜、正体がわからないほうがよっぽど恐いよ、じゃあ明後日ね!火曜日と木曜日でしょ、決まってあの音が聞こえてくるの、だから明後日、けって〜!」
妻はずいぶんとはしゃいでいたが、ぼくはなんだかあまり気が進まなかった。
確かに妻の言うように正体がわからないものほど恐いものはない。昔の人々は身の周りで起こる意味不明で怪異な出来事に対して、その正体を化物やら幽霊やらだと言って形を与えることで、恐怖を和らげていたのだ。
そういえば江戸時代、江戸の本所という場所で語られた七不思議のひとつに「送り拍子木」というやつがあったことを思い出した。とある場所で夜回りのために拍子木を打ち鳴らしながら歩いていると、自分の背後から同じように拍子木を叩いて付いてくる音が聞こえる。なにかと思って振り返っても暗闇の中には誰もいない。その音が自分を送っているようで恐ろしいと言われたことから「送り拍子木」という怪談話になったものだ。
まさかあの異常なスピードの拍子木が幽霊やら化物だとはもちろん思っていないが、何か頭に漂う白い靄のように少しだけ嫌な予感を拭いきれなかった。
月白貉