ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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園長

「マサヒコ、今度の日曜日さ、シロヤマさんの裏山に行こうよ!」

 

兄が高校生になるまで、ぼくと兄は家の二階にある八畳ほどの部屋を共用で使っていた。

 

部屋には簡素な勉強机が二つとやはり共用の本棚と洋服ダンス、そして二段ベットが置かれていて、ふたり兄弟が二段ベットを使う際の公式ルールみたいなものに則って、二段ベットの上の段が兄、そして下をぼくが使っていた。

 

「でも、あそこの裏山、頭のおかしい老人がいるって、クラスで噂になってるよって、カンマが言ってたよ、あとその老人がデカイ猿を連れて歩いていることがあるって・・・。」 

 

「カンマ」は近所に住むぼくの幼なじみで、カンマというのはぼくが彼女につけたアダ名だった。

 

おそらく彼女のことをカンマと呼んでいるのは、ぼくとぼくの兄と、そしてぼくがカンマと呼ぶ人物が誰かを知っているぼくの父と母だけだった。ぼくの知る限りでは、カンマのお父さんもお母さんも、カンマのことをカンマとは呼んでいなかった。カンマの本名は神山緑といい、同じ町内にいる唯一同い年の女の子で、ぼくが幼稚園の頃から親同士にも交流があり、その頃から、ぼくがカンマの家に遊びに行ったり、カンマがぼくの家に遊びに来たりすることが頻繁にあった。

 

ぼくとカンマの通う幼稚園は、型にはまらない自由な幼児教育に力を入れており、近隣の幼稚園にあるようなテンプレートのカリキュラムは一切存在しなかった。園児たちのケアに対しても基本的には最低限度に留められており、見ようによってはほぼ野放しのような状態だったため、その幼稚園に自分の子どもをあずけている家庭はごく少数で、ぼくとカンマの通っていた当時、近隣の幼稚園に比べて園児数は極端に少なかった。町内では、その幼稚園に対してのきちんとした理解もないままに、誰が言い出したのか知らないが「ホビット庄」などという呼び方をされていて、幼稚園のひどい陰口を言い合っている人々もいた。

 

幼稚園がホビット庄と言われていた理由はおそらく、

 

そこに通う園児たちを指輪物語に出てくる自由奔放なホビットに悪い意味で例えたものだったのだが、それに加えてもう一つ理由があった。それはぼくが通っていた創設当時の園長が、指輪物語に出てくるガンダルフのような風貌をした老人だったからで、彼が毎日夕暮れ時になると、幼稚園の建物の屋上に上がって、天を仰いで何か祈祷のようなことをしている姿が、町の多くの住民に見られていたからだった。

 

「あの幼稚園、なにか宗教なんでしょ?毎日毎日、園長が何かお祈りみたいなことをしているじゃないの、あれ、ちょっと恐いわよねえ。」

 

園長のことに関しては、ぼくは正直いって詳しい実像を知らない。

 

ぼくが通っていた頃には当然毎日顔を合わせたし、確かに一般的な町の住民に比べれば、ちょっと個性的な服装をしているなあと子ども心にも思っていたような記憶があるが、いつも優しくて笑顔で、大好きなおじいちゃんというのがぼくの感じていたことだった。そして、毎日園長が屋上でしていることも、実際のところは園長が独自に開発した園児向けの柔軟体操で、あまり固定カリキュラムのなかったその幼稚園で唯一園児たちが毎日の日課としてやらされているものだった。園児たちは朝の一回だけだったが、園長は聞くところによると、体操の詳細部分の試行錯誤やチューニングのために、朝昼晩の三回その柔軟体操をしているということだった。そして夕方だけは単に景色を見ながら体操がしたいという理由で、毎日屋上に上がっていたという話をずいぶん後になって母から聞いたことがある。

 

園長はなにも、毎日夕暮れ時に建物の屋上で祭壇を組んで、異世界の神と交信をしているわけではなかったのだが、誰かの悪意ある陰口によって、最終的には悪魔崇拝の幼稚園などというとんでもない噂まで囁かれるようになっていた。

 

子どもの教育 (シュタイナーコレクション)

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