ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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汚れつちまつた悲しみは、突き抜け孤独に追いつくか日記。

帰り道、その始まりが暗闇ではなくなった。

 

まだ空の向こうのほうがオレンジ色でさ、家に帰り着くまでずっとずっとオレンジ色で、そのオレンジ色の上から、水色とも青とも薄い紫とも言えないような、まだ闇にはならないけれど、おそらくは闇なんだろう色が、滲んできていた。

 

たぶん、その情景は、いままで季節が繰り返すたびに何度も何度も目に焼き付けてきたはずなんだけれども、ぼくの目に焼き付けられたあの色や、その色への思いや、なにかもっと本当に根源的なその事柄に対する、ある意味での斬撃感みたいなものが、その瞬間にはまったくどこかに消え去っていて、だからそれはまるで、ぼくが生まれてはじめて目にする奇跡かのような感覚に陥ることがある。

 

何もできなかった365日と、それでも無意識に、貪るように世界を見つめていた日々。

 

かつて幼かったあの頃、混沌たる日々に、毎日夕暮れ時になると必ず感じていたなにかへの夢想と、同じものなのかな。

 

あれからずいぶん時間がたったけれど、ずっと同じことを感じながら、忘れたりぼんやり思い出したりしながら、何十年たった今でも、やっぱりそのことは、ある瞬間には必ず、ぼんやりでさ、でも、時にすごく鮮明なのさ。

 

毎日、あの湖の先に落ちる大きな丸い玉が異常に鮮やかに見えるのはなんでって、そのことに少し疑問を抱くことが、そもそも疑問なのだけれど。

 

そして、

 

小走りに家路を急ぐ横目には、揺らめく空の境目の、あのオレンジに輝く久遠の中へ吸い込まれてゆくたくさんの人影がみえている。

 

あんなふうに無邪気に、意味もなく、吸い込まれてゆきたいと思いつつも、どこかでそういうことを嘲笑っている自分がいる。

 

いっそのこと、今ここでわざと転んで、両膝から血を流しながらでも、オレンジ色に偽ったあの闇に吸い込まれてしまいたいけれど、なかなかそういうわけにもいかないと無闇に踏ん張っている自分がいる。

 

そういう自分が、時々無性に腹立たしいのさ。

 

チキショウ、孤独なぼくを、誰か酒に誘ってくれよ。

 

孤独を突き抜けたところに、ほんとうの孤独がある。残念ながら突き抜けちまった。

 

汚れちまっちゃいないだろうが、突き抜けちまった孤独と、やっかいな悲しみが今ここにはあるだろうさ。