ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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未知なるものへの疑いと恐れ、けれど歩き出す勇気と強さ、イーサン・チャンサー監督による『アマラ(AMARA)』

多くは物語らないけれど、けれどね、その重厚な近未来的世界観、そういうものがぼくは大好物である。

 

描かれていないものが、場合によってはすべてなこともある。

 

必ずしも近未来ではなくてもよいかな、レトロフューチャーでも、ファンタジーでも、あるいはパラレルワールドでもいい。もちろん現在でもいいさ。

 

よく思うのだけれど、想像や妄想の全貌をすべて表現するよりも、その一瞬、一端を詳細に表現するほうがけっこう難しいし、価値あるものではないのだろうか。

 

今回久しぶりに取り上げる短編を観て、そんなことを思った。

 

イーサン・チャンサー(Ethan Chancer)監督による『アマラ(AMARA)』である。

 

 

多くは語られていないので、多くを語ることは出来ない。

 

対話とは、本来そういうものである。

 

でもすっごくかっこいい映像世界には違いない。ちょっとデヴィッド・リンチを彷彿とさせる側面もあると、勝手に思っているけれど。

 

主演は、ロサンゼルスを拠点として活動する女優でありモデルの、アレクサンドラ・マシューズ(Alexandra Mathews)だそうです。

 

興味のある方は、ぜひどうぞ、途中に出てくる樹がいいよ、樹が。