ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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明
明

本当はコワい夏の逢魔時と、背中を曲げるドッペルゲンゲルの話。

ズボンのポケットに入れたスマートフォンを引っ張り出して時間を確認すると、午後6時を少し回ったところだった。この頃随分と日が長くなり、冬場ならとうに闇に包まれている窓の外はまだ水色と薄橙色の光が我が物顔で寝転んでいた。

 

私が台所で牛スジを煮込みながら、午前中に古本屋で安く買ってきたあまり名前も知らない作家の怪奇小説を読んでいると、玄関でカチャカチャと鍵穴の回る音がして、その後ドアが開いて勢い良く風を切る音が聞こえてきた。

 

「ただいま。」

 

勤めを終えた妻のアカネが、何だが機嫌の悪そうな表情を浮かべながらリビングに入ってきて小さな溜息をついた。ただその表情がいつもと比べて機嫌が良いか悪いかという判断は、長く一緒に暮らしている私でなければわからないようなものであり、もしかしたらそんな私の読みさえも外れているのではないかと不安になるほどの極めてわずかな陰りほどに思えた。そして彼女は気分の状態に関わらず日常的に小さな溜息をつくので、結局のところいつものように中間状態の気分で帰宅しただけかもしれなかった。

 

「おかえり。」

 

アカネはそのまま私の横まで来て私に体を寄せ、脇腹をギュッと抓って私の唇にキスをした。彼女がいつもと趣向を変えようと思ったのか、そのキスの仕方はいつもとは随分違うような気がした。

 

彼女は仕事を終えて帰宅するといつも、大抵は私にキスをして、そして平日の夕食を担当している私の横で今日の自分の身に起きた出来事をひとしきり話したがるのだった。

 

「きょうはなにごはん?」

 

「きょうは牛スジを煮込んでいますよ、それとマグロの赤身が安かったからそれと、冷奴とお漬物と、出来合いだけれど特売のコロッケを買ってきたのでキャベツの千切りを添えて、そんなものでいいかな?」

 

「じゅうぶんじゅうぶん、じゅうぶん豪華ですよ。」

 

「きょうはいかがでしたか?」

 

「えっとねえ、ちょっと怖いことがあった。」

 

「え、怖いことですか。道路の水たまりにワニがいたとかいう話かな。」

 

「水たまりはあったけど、ワニはいなかった。ねえ、サトシさあ、自分にそっくりな人って見たことある?似てるとかじゃなくて、もう俺じゃんっていうくらいのレベルの人、見たことある?」

 

ドッペルゲンゲルの話ですか、ん〜、見たことはないなあ。顔が似てる歌手に間違われて、握手を求められたことはあるけれど。きみは今日見たんですか、ドッペルゲンガー。」

 

「ゲンゲルとゲンガーは別物なの?」

 

「いやたぶん同じだと思うよ、アクセントを付けるために変えて言ってみただけだよ。それで、ゲンゲルだかゲンガーだかを見たの?」

 

「見た。」

 

「へ〜、それはちょっと怖い話だね。どうだった?」

 

「いやね、随分前から職場の何人かに、昨日どこそこにいたでしょ?とか言われることが続いててさ、でも私その日のその時間にそんな場所にいないしさって言うんだけど、声もかけたし挨拶もしたじゃんって言うのよ。」

 

「それはちょっと嫌な話だね。もしくは、きみが勘違いしてるとか?」

 

「いやいや、そんなことないよ、仕事休みの日だから大抵はサトシと一緒に行動してるでしょ、買い物とかさあ。」

 

「完全にじゃないけれど、そういう場合が多いね。じゃあそのきみだと思われてる人はきみではないわけだね。」

 

「モチのロンですよ、私じゃないのよ。でも怖いのがさ、挨拶した人の話だとさ、声を掛けたらニヤって嫌な笑いを浮かべてすごい速さで走ってどこかへ行っちゃったらしいのよ。その走り方がやけに背中を曲げた格好で、腰の曲がった老婆が全力疾走してるみたいでちょっとゾッとしたよって、そういうことが二度もあったって、しかも同じ場所で。」

 

「ねえ、ちょっと待って、きみもしかしてさあ、この話の伏線のために今日あんなことしたの?」

 

「え、あんなことって何よ?」 

 

「きょうお昼頃に、きみ神社のところ歩いてて俺とばったり会ったでしょ。」

 

玄関のインターフォンのボタンを誰かが押したようで、部屋の中にチャイムの音が鳴り響き、台所の脇にあるモニタ付きインターフォンの画面に荒れた画像の玄関の様子が映し出された。私がアカネ越しにそのモニターに目を向けると、そこには左右にキョロキョロと顔を揺らすアカネの姿が映っていた。

 

私の両腕に音を立てて鳥肌が立った。

 

すると私のすぐ横に立っている部屋の中のアカネがふいに引き攣ったような笑い声を上げ出したかと思うと、私に背を向けて腰を曲げて床に両手をつき、犬が散歩中にいたるところに鼻を向けて匂いを嗅いで回るような仕草をし始めた。

 

「カエテキタ、カエテキタ、ヒキキキキキ、ヒキキキキャ〜!」

 

インターフォンのチャイムが再び部屋の中に鳴り響いたのを合図にしたように、部屋の中のアカネが奇妙な体勢のまま「ギャ〜!」という狂ったカラスみたいな叫びを上げてベランダに面したガラス窓の方に凄まじい勢いで走り出し、そのまま網戸をぶち破って三階にある部屋のベランダの柵をビュンと飛び越して私の視界から姿を消してしまった。

 

私は慌ててベランダまで行きベランダの下の道路を見渡したが、そこにアカネの姿はなく、いつもの見慣れた景色が静かに描かれているだけだった。

 

いつの間にか外は、夜の闇に覆われようとしていた。

 

本当はコワい夏の逢魔時と、背中を曲げるドッペルゲンゲルの話。

 

 

 

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月白貉