ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

きょうがもし世界の最後ならいいのに、そういう日記。

明日からもこの世界が続くと思うと、本当に憂鬱になる。

 

きょう、ぼくのこの数年間の日々と思い出が、音を立ててく崩れ行くかもしれない。まだわからないけれど、そうなるかもしれない。だから、もしそうなるなら、明日なんか来なければいいのにと、心の底から思っている。

 

数年前、自分を根底から変えようと思って、いろんなことを、ほんとうに何もかも捨て去った。

 

そうして確かに、少なからず変わった部分もあるかもしれないし、そう願いたいが、実際に、きょう部屋の中でひとり佇むぼくは、あの日と何も変わってなんかいなかった。それは、ある意味においては素晴らしいことかもしれないが、同時に呪われた者の軌跡だとも言える。

 

いくら大人になっても、怖くて怖くて誰かに抱きしめていて欲しい時だってある。

 

しかしこの瞬間、その誰かはぼくに背を向けて走り去ってゆく。

 

今からなら、まだ追いつけるだろうか。

 

ぼくが必死になって駆けてゆけば、追いつけるのだろうか。

 

薄オレンジ色の窓の向こうの空が見える。

 

誰かに背を向けさせてしまった原因はぼくにあることはわかっているけれど、背を向けるまで気がつけないなんてなんて愚かなんだと。

 

そんな愚かな自分が立っている明日を想像すると、さらに憂鬱になる。

 

闇に包まれつつある今日のこの世界のぼくに、わずかでもいいから、優しい光を。

 

 

月白貉