ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

チョコレートケーキ、冷蔵庫にある日記。

昨日から右目の上の奥が痛い。

 

一晩眠ったら治るかと思ったけれど、今日もまだ痛い。

 

時々、慢性的な頭痛や歯の痛みが勃発することがある。頭痛の原因は不明だし、虫歯なわけでもないらしい。何かしらのストレスかもしれないし、パソコンの画面を見すぎているのかもしれない。放っておくといつの間にか痛みは消えている。そういうケースがぼくには多い気がする。

 

だからこの目の痛みも、その内消えるかもしれないが、なにか重大な身体の不調の現れかもしれないと思うと、少し暗い気分になる。反対にすぐに治るだろうと楽観的に考えるとどうでもよくなるが、目の痛みという事実があるので、それを何かに結びつけて考えないようにするという行為は、なかなか難しい。

 

心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉がある。しかし、そのような無の境地に至ることが出来たとして、火を涼しいと感じたところで、火に身を投じれば焼け死ぬのではないだろうか。あるいはその精神的境地は肉体をも変化させ、火に耐えうる特殊能力を開花させるのだろうか。

 

多重人格者は人格の入れ替わりにより肉体的な変化をも伴うという話がある。つまり力が強くなったり足が早くなったり、体格が圧倒的に変わったり、アレルギー反応に変化が現れたり、精神が大いに肉体に影響を及ぼすのである。

 

M・ナイト・シャマラン(M. Night Shyamalan)の『スプリット』(Split)という作品に登場する多重人格者は、ある人格発現の際に人間の限界を遥かに超えたような超常的な肉体に変化していた。

 

もしかするとぼくは多重人格的者であり、いまこの文章を書いているのとは別の人格が発現している際に異常な治癒力を発揮して、自己の身体の不具合を治癒しているのかもしれないということだって考えられなくもない。そういえば時々、「こんな文章をいつ書いたんだっけ?」というような大きく文体の違う文章を自分のウェブログで発見して恐怖を感じることがある。

 

閑話休題

 

目の痛みに闇を見るのか、あるいはその闇を打ち消す光を持ち続けるのか。

 

何かの楽しみを想像しながら生きている時間と、何かの苦しみを想像しながら生きている時間、これまでのぼくの人生において、どちらの時間のほうが多かったのだろうか。

 

人生には、実際に楽しい時間と実際に苦しい時間、楽しみを想像する時間と苦しみを想像する時間、無念無想の境地にいる時間、それ以外の無駄な時間というものがあるとして、はたしてそのどこに長く身をおくことが望ましいことなのか。

 

つまり、目の痛くない時間と目の痛い時間、目の痛みの原因ではなくチョコレートケーキが冷蔵庫にあることを想像する時間と目の痛みの原因を想像する時間、目があることを、それどころか自身の肉体の存在を忘れ去る時間、それ以外の現し世の地獄時間と考えると、個人的には冷蔵庫にあるはずのないチョコレートケーキの存在を盲信している時間が、何よりも必要なことではないのかと思う。

 

そしてもし多重人格者に人間の高位な能力開花の力があり、ぼくが多重人格者であるなら、チョコレートケーキを一時間にひとつ食べないと死んでしまうという人格発現の際に、ありもしない冷蔵庫の中のチョコレートケーキを、その空間に無から生み出すという特殊能力を持ち得ているかもしれない。

 

それが何を意味するかといえば、いまこの瞬間、目の痛いことなど忘れて台所の冷蔵庫の扉を開けると、まったく買ってきた覚えのないチョコレートケーキがおおよそ24時間分、つまり一食分にカットされた24個のチョコレートケーキが冷蔵庫の中に入れられている光景を目にして驚愕するという事態が、この後待ち受けているに違いないということである。

 

あるいはそれは無からのチョコレートケーキ生成という特殊能力ではなく、チョコレートケーキを一時間に一個食べないと死ぬ人格発現時に、近所のケーキ屋でチョコレートケーキを24個買ってきて冷蔵庫にいれたのかもしれないが、もしそれが現実に目に飛び込んできた際には、なぜホールではなくカットされた24個を買ってきたのかと、現他人格のぼくはそのチョコレートケーキを一時間に一個食べないと死ぬ人格に問うだろう。

 

おれの下位にいる人格が重度のホールケーキアレルギーで、ホールケーキを見ると死ぬからだよ、ボケが。

 

はい。そうだからです。

 

閑話休題

 

目が痛いことで、少しだけ死について考えている。この痛みが消えるなら死んでもいいと、死にたいと少しだけ考えている。

 

けれど、いつも死にたいと考えていたフランツ・カフカは結局自ら死ぬことはなかった。

 

A first sign of the beginning of understanding is the wish to die

 

寒々しい雨の降る窓の外を眺めながら真っ暗な部屋の中で時々右目をおさえながらこの文章を書いているぼくに、誰かがチョコレートケーキのホールを買って訪ねて来ることを切に願う。

 

その時ぼくは死に、右目の鈍い痛みから永遠に開放されるだろう。

 

f:id:geppakumujina:20180203160939p:plain

 

 

 

月白貉