ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ウエスト・ウォール - 0046地区 - ムーン・ホワイトからの報告

図書館の窓にかけられた半開きのブラインド越しに、黒々と波打つ川が見える。

 

今日はいつになく風が強く、川の水が鋭い風の刃で細かく切り刻まれでもするかのように痛々しい姿を晒している。

 

そして風は、その水の姿を見て豪快で低く憎らしい笑い声をあげている。

 

図書館脇を流れる川面に、“あの”影を見かけたのは数日前のことだった。

 

壁に閉ざされた町に取り残されたぼくが、日中のほとんどを無人の市立図書館で過ごすようになってからずいぶん長い時が経過する。町を壁が覆った正確な日時は不明だが、壁の出現後はじめてぼくが図書館を訪れた際には、その入り口は施錠されておらず開け放たれたままだったし、館内の照明も灯ったままだった。けれど町の他の場所と同様に、図書館の中には利用者も職員も、人影と呼べるものはすでに一切存在していなかった。

 

なぜこの町の住民はことごとく姿を消してしまったのか、考え得る可能性としては、壁の出現後すぐに、もしくは壁の出現前に、町の住民に対して何らかの避難勧告がなされ、この図書館をはじめとするあらゆる場所の人間が誰かの、おそらくは行政機関の指示によりどこかに移動したのかもしれない。そしてその一部か、あるいはすべてと思われる人々は壁出現当初、透明な壁の存在を全身で指し示すようにして、壁の周囲に物言わぬ黒い死体となって、まるで崩れた組体操のピラミッドかのようにしてうず高く積み上がっていたが、それから数年経った今の壁の境界線付近は、さながらイタリアの地下に広がるカタコンベのように、広大な髑髏の道を形成している。

 

もし携帯電話への緊急メールやテレビの速報で壁の出現とそれに伴う避難勧告の情報が流されていたとしても、ぼくは携帯電話もテレビも所有していなかったため、おそらくそれには気が付かなかったのだろう。しかし家の近所には災害時などにおける住民への情報伝達用として街頭スピーカーが設置されており、時々には防災訓練と称して大きな災害を想定した緊急放送のテストが行われていた。けれど壁の出現前後、そのスピーカーから何かしらの放送が流れることは一切なかった。

 

ぼく以外の他の人々は何の情報から壁の存在を知り、なぜ町の境界を越えようとしたのだろうか。

 

毎日図書館を訪れる度に、ぼくは何度もそのことをふとした瞬間に繰り返し考え、頭の中で静かに転がし続け、最後には力の限りにどこかに蹴り飛ばしていた。しかしそれは、またしばらくすると、図書館をさまようぼくの脚元に再びぼんやりとした球体として姿を現し、ぼくはまたその球体を静かに転がし始めるのだ。

 

そんな果てなき微睡みのような日々の中である日、ぼくが図書館のある一角から窓の外をぼんやり眺めていた時のことだった。

 

ぼくが何気なく目を向けた川面に何か顔のようなものが浮かんでいて、それはあの日、町の境界で焼けただれていた人間のように真っ黒い色をしていたのだが表面はやけに光沢があり、白と黒で構成された眼球とまぶたを持つ目がふたつあり、その下に小さな点のようにも見える鼻孔のような穴がふたつあり、さらにその下に鋭いナイフで肉をスッと切り裂いたような薄い口のラインがあり、そしてその顔のようなものは、大きくまばたきをしながら周囲を何度もキョロキョロと見回した後に、小さな水しぶきをあげて水中に姿を消してしまった。

 

ぼくはしばらくの間、息をするのも忘れたようにして窓の外の水面を凝視していたが、ハッと我に返って窓に両手と顔を引っ付け、その場所をもう一度改めて食い入るように見つめた。

 

水面に顔が揺れ動いていたのは刹那のことだったが、様々な想像を頭の中で組み上げるには十分な情報量を持つ出来事だった。

 

あの顔のようなものは、明らかに何かの生物の頭だった。水中から何かの生物が頭部だけを出し、周囲を見渡してから水中に潜ったという状況だったに違いない。しかしその頭は、ぼくが知る水棲生物、魚や蛙、あるいは水鳥、水棲ではないが周辺の森に住む狸や穴熊などの哺乳類に該当するとは思えなかった。生物学などには大凡精通していない素人の直感でしかなかったが、頭の大きさ、目の動き方、そして動作や息遣いから考えて、少なくともあれは、何か人間に近いもののように思えた。

 

そう思った瞬間、ぼくの身に、ちょうど首筋のあたりに、まるで天井から不意に垂れ下がってきたような黒い粘液の如き恐怖がボタボタと滴り落ち、ぼくはゆっくりと窓から両手と顔を引き剥がした。

 

そして、手に持っていた一冊の本を抱えたまま急いで図書館を飛び出ると、この数年間の孤独な時間を遡るかのような速さで町の中を自宅まで駆け抜けていた。

 

ーーーーーーーーーー

 

息を切らして家の中に駆け込んだぼくはすぐさま、台所のテーブルの上に置かれたノートパソコンを起動させ、WEBブラウザを立ち上げ、「UGORIM MAIL」のページに向き合った。

 

そしてどこに届くかも知れない誰かへのメールを書き始めた。

 

エスト・ウォール - 0046地区

ムーン・ホワイトからの報告

 

この地区の壁の中で本日、おそらくは未知のものだと思われる生物を目撃したので報告する。

 

黒いビニールのような質感の肌を持ち、一切毛の生えていない頭部を川の水面に覗かせていた生物を一体目撃。

眼球と瞼を有する目(2)、鼻孔(2)、唇のない線のような口(1)、耳の外形および耳孔は確認出来ず。

頭部の大きさに関しては、人間の成人男性ほどだと推測。

頭部以外の水中に潜っていた部分に関しては一切不明。

人間に近いような印象を受けた。

 

ここからは個人の勝手な想像に過ぎないが、なにか嫌な予感を・・・、邪悪なものを感じさせた。あるいは壁の出現と何らかの関係性があるのかもしれない。

 

この報告に関してなにか気付いたことがあれば、情報を求む。

 

どんな些細なことでも、どんなことでもいいから・・・。

 

日時に関しては一切不明、たぶん世界が闇に包まれる少し前だと思う。

 

ぼくの時間の概念は、光と闇の入れ替わり程度しか、なくなってしまったのかもしれない。

 

その頃、ぼくの精神には自分でも明確に感じるような、深い亀裂が入り始めていた。

 

参考文献:死の壁に覆われた町からの短い手紙

 

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月白貉