ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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極寒の部屋に映し出された夢、ラ・ラ・ランド日記。

部屋の中で吐く息がすげえ真っ白い、つまり寒い、0度くらいだと思う。

 

左手も右手も霜焼けで感覚がなく、グーどころかパーもチョキも、ダブルピースも出来ない。それでもなんとか固まった指をキーボドに打ち付けて、レトロフューチャーなサイボーグばりの動きでこの文章を必死で叩き書いている。

 

誰か、助けてください。

 

ここ数年、冬季でも暖房器具をほぼ使わなくなって、部屋の中でダウンジャケットを着てニット帽を冠る日々だが、今日はそれでも寒い。

 

そんな極寒な部屋の中で毛布と羽毛布団を身に纏って、『ラ・ラ・ランド』を鑑賞した。

 

ぼく的にはかなりスロースターターな作品であり、序盤では「あれ、つまらないかも・・・」と感じていたが、徐々にあたたまりだした。そして、あたたまりだして、最終的にはなかなか楽しめたものの、それほど衝撃的な感動はなかった。

 

けれども、自身の光輝く夢を持ち続けている人には、良い意味で胸に杭を打ち込まれる思いのする作品なのではなかろうか。

 

ぼくは若干軽めだが、確実に杭を打ち込まれた気はした。なぜなら昨今、ある程度光り輝く夢を諦めつつも、同時にその光を今でも小脇に抱え、時々チラチラと横目で見ながら走り続ける日々だからである。もとい、走ってはいなかった、かなりゆっくり歩いている。

 

誰かの胸に杭を打ち込む映画は、結構たくさんありそうで、実はなかなかない。

 

そして胸に杭を打ち込むということは、ある意味ではヴァンパイア映画という側面を影の部分に持ち合わせているような気がする。だってエマ・ストーンはちょっとヴァンパイア系のヴィジュアルである。

 

そしてもう一本続けて映画を見ようとしたものの、身辺にトラブルが勃発して、号泣しながら雪原を駆け抜けることになったため、きょうはもう、風呂入って、ラ・ラ・ランドの劇中歌を熱唱しながら、安いジャンクな赤ワインをガブ飲みする。

 

ちなみに今日の夜の献立は、アボカドとキュウリと生ハムのサラダ、人参とササミとクリームチーズのサラダ、サラダが二種類なんて素敵ね、パプリカと鶏皮のバルサミコソース、きょうはカンパーニュを買い損ねたので、昨日の残り物のトマトソースをごはんにぶっかけて食す、こんなものである。

 

食後に『ムーンライト』を観たいけれど、たぶん酔っ払うから今日は観ないだろう。

 

部屋の中で吐く息が白いが、きょうは踊りたい気分である。

 

アデュー。

 

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月白貉