ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

クリスマス

2017年12月26日、クリスマスの翌日にぼくがベッドの中で目を覚ますと、隣で眠っているはずの彼女の姿が消え去っていた。消え去っていたのは姿だけではなく、そこに昨夜あったぬくもりのようなものも、一緒にどこかに消え去っていた。

 

ベッドから起き上がったぼくがリビングに向かうと、テーブルの上に朱色の封筒が置かれていて、そこには「メリークリスマス」とだけ書かれていた。封を開けてみると、それは彼女からの短い手紙だった。

 

手紙には、ぼくと彼女が出会ってからつい昨日までの数年間のことが、小さな淡い風景画のように綴られていて、最後に「あなたのことが大好きです。それはどんなことがあっても揺るがないたったひとつのことです。だから、いつかまた、どこかでめぐり逢いましょう。」と締めくくられていた。

 

ぼくはその手紙を何度も何度も読み返してからテーブルの上に置きなおし、そのまま椅子に腰を掛けて、何もせずに何時間も何時間も、あてもなく窓の外の景色を眺めている。

 

この頃、ぼくはもういつだって死んでもいいと思うようになった。何一つ手に入れたものはないし、何一つ達成したこともない。けれど、単純に時間的なことだけ考えれば、もう十分に生きたのではないだろうかと、ぼんやりそう思うようになった。

 

しかし死というものが本当は一体どんなものなのかを知らない限り、死ぬということへの思いは圧倒的な空想としてしか存在はしない。ぼくにとってその死とは、何かの逃げ道でもなければ、あるいは絶対的な救いでもない。それは漠然とした姿を持つ何か陽炎のようなもので、いつだってぼくの目の前の少し先の方に見えているものだった。手を伸ばして触れようと思えば触れられるくらいの距離にある丸い玉のように思えることもあれば、時には水平線に浮かぶ雲のようにも見えた。

 

ただこの頃は、死がずいぶんはっきりとした姿に思えるようになった気がする。それはまるで目の前をぼくと同じスピードで歩いている人影のようで、ぼくが止まれば向こうも止まるし、ぼくがまた歩き出せば向こうも歩き出す。結局それはぼくの影か、あるいはぼく自身なのではないだろうかとも思えた。

 

そうやってこの頃、その人影の後ろをずっと追いかけている内に、ぼくはそろそろあの人影の肩に手を置いて呼び止めてみたくなった。呼び止めて声を掛けて、こちらに振り向かせてみたくなった。そしてもしその人影が死なのであれば、ぼくは死が振り返った時に死ぬのだろう。

 

つまり、その捉え所のない陽炎のような、あるいは明確な人影としての死の姿を、その正体もわからないまま目に映してきた結果、そろそろもう正体を知ってもいいだろうという思いが強くなってきたのだ。

 

そしてぼくがこれまでの時間の中で、ぼんやりとした死を視界に捉えながら不明瞭ながらも知ったことは、生きているということは何かを失い続けることで、生きている間に何かを手に入れることなんて決して出来はしないということだった。だったら結局のところ、ぼくは一体何をするために生きているのだろうか。

 

けれど、彼女がぼくの隣りにいた数年間、後から考えればだが、ぼくは何かを失い続けていることを忘れていた。彼女の存在が、生きるというなにか呪縛のような、そして理不尽な苦しみを覆い隠してくれていた。もちろんその間も、ぼくは実際にはたくさんのものを失い続けていたに違いない。なぜならぼくの生きているという時間が止まっていたわけではないから。そして彼女自身も当然ぼくと同じように、ぼくの横で何かを失い続けていたはずだった。

 

あるいは、ぼくが知らないだけで、彼女はぼくといる時間の中で何かを手に入れることが出来ていたのかもしれない。願わくば、そうであって欲しいと思っている。

 

彼女は酒に酔うと時々、小声でつぶやく独り言のようにして、生まれ変わった自分と、同じように生まれ変わったぼくの話をすることがあった。

 

昨日のクリスマスの夜にも、彼女とぼくは静かにその話をしていた。

 

「私は、死んで生まれ変わってもね、生まれ変わる前の記憶を失わないの。」

 

「それ、いつも言うよね、なぜ?」

 

「そういう風に、特別に決められているからよ。」

 

「ぼくは、生まれ変わったら、前の記憶を失っちゃうの?」

 

「そう、あなたは失っちゃうの。」

 

「じゃあもし、ぼくが一度死んで生まれ変わったら、いまの自分のことも、そしてきみのことも、全部忘れちゃうんだね。」

 

「そうよ、でも、私が覚えてるから大丈夫。そしてね、あなたが何に生まれ変わったかも、私にはわかるの。」

 

「なぜ?」

 

「私は特別なの。」

 

「じゃあ、もしふたりとも一度死んで、また生まれ変わって、その時まだきみがぼくと一緒にいたいと思っていたなら、きみはぼくのことを探しに来てくれるの?」

 

「探しになんか行かないわよ。」

 

「えっ、なぜ?」

 

「探しに行かなくても、また二人は、自然に引き合わされるの。そしてまた一緒にこうやって手をにぎったり、キスをしたり、抱き合ったりすることになるの。」

 

「それじゃあ、きみに残された前の記憶や、ぼくの生まれ変わった姿をきみが知っていることに、あまり意味は無いような気がするけれど。」

 

「そんなことないよ、だって私はあなたのことを覚えてて、あなたにまた会いたいと思ってて、あなたに会えた時にこう思うよ。やっぱりまた会えた、って。」

 

「ぼくには、それはわからないんだね。」

 

「そうよ、あなたにはわからないの。」

 

「じゃあもし、ふたりが生まれ変わって再会した時、きみはそのことをぼくに教えてくれるの?」

 

「再開した時には、教えないの。でも最後には教えてあげる。」

 

「最後って?」

 

「あなたか私が死ぬ時よ。」

 

「でもぼくは、死んで生まれ変わったら、その記憶を忘れてしまうよ。」

 

「そうよ、でも大丈夫、私が、覚えてるから。」

 

「きみが、覚えてるから。」

 

「そうよ、そして、必ずまた逢えるから。」

 

f:id:geppakumujina:20171226143907p:plain

 

 

 

月白貉