ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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暗闇の部屋で綴る、幻想の霧日記。

いまこの文章を、ニット帽をかぶった上にパーカーのフードをかぶって書いている。

 

なぜなら部屋が寒すぎるからであり、しかしぼくの部屋には暖房器具が一切ないからである。

 

正直に言うと小さな電気ストーブはあるが、彼はいま隣の部屋で、氷河のように冷え切った床に寝転がって死んだようにして眠っている。冬になってからずっと、そうやって寝息すら立てずに、眠りこけている。

 

キーボードを打つ手を休めると、フードに覆われた耳の中で自身の心臓の鼓動音が響いている。

 

だからまだ、生きている。

 

部屋があたりまえに寒いのは、冬だからだろう。そういうことを人は忘れがちである。

 

ぼくは日々、寒さから身を守るために、フードだけではなく、両手には手袋をはめているが、それでも、右手の手袋の下の薬指と小指は重度の霜焼けで紫色になり、通常の二倍の太さに膨れ上がり、関節がなくなり、折り曲げることさえ出来ない。なぜその二本の指が重点的に霜焼けの餌食になっているかといえば、右手でマウスを扱うために他の指に比べてテーブルに密着している時間が長いからだと思われる。テーブルに関しても、床と同じく氷河の如き冷たさであることは言うまでもない。

 

二本の指の感覚がほとんど感じられない。

 

けれどまだ、生きているようである。

 

今朝方、いつもより早い時間に、天候の都合でしばらく休んでいたジョギングに出かけた。基本的にジョギングのコースは固定しない。その都度の思いつきで変則的なコースを走り回ることにしている。ある程度のベースとなる順路はあるものの、その組み合わせを変えたり、時にはまったく通ったこともない道を選択する場合もある。

 

理由は、同じコースばかりを走っていると時々心が折れ曲がってしまうことがあるということと、決まった同じコースしか走らないことを知られてしまうと、待ち伏せをされる危険性が生じてくるからである。誰に待ち伏せをされるのかということは、ここでは明かせない。

 

そのジョギングの順路のひとつに湖畔を走るポイントがある。

 

今日はそのポイントを選択肢に入れたわけだが、湖に差し掛かった時、湖の向こう側が濃い霧に覆われている光景を目にしたぼくは、無意識の内にその霧の中を目指して走っていた。

 

数歩先が見えないほどの濃い霧に身を投じた経験がある方は知っていると思うが、どんなに先が見えなくても、その先のことがわからなくても、なぜか先へ先へと進みたくなる、あの幻想的な、そして魅惑的な霧の吸引力には抵抗し難いものがある。

 

後から思えば、見えるはずの先が見えないことが、なぜあんなにも心を惹きつけるのかと不可解に感じる。

 

本来であれば、先が見えなければ見えないほど不安にかられるはずなのに、それは霧というものに関しては、当てはまらない。

 

その感覚は、すべての人に言えることではないかもしれないけれど、ぼくはそうなのである。

 

先が見えない、つまり先の予測がつかない事柄に関しては、大抵は不安である。それもかなり恐怖を含む部類の不安だと思う。閉まっている扉の先、壁の向こうにある空間の存在、あるいは真っ暗闇の道、そういうものはやはり先が見えないから、時として大きな不安と恐怖を感じさせる。物質的な事柄だけでなく、時間軸的なこと、一分先とか一時間先とか、あるいは明日とか、そういうものに対しても場合によっては強い不安をおぼえる。

 

走りながら霧の中に到達したぼくは、走り続けながらずっとそんなことを考えていた。

 

扉、壁、暗闇、時間的な未来、そういう見通せないものの先は怖いのに、なぜ霧にはそういうものを感じないのか。

 

けれど恐怖を扱った映画作品には、霧をテーマにしたものがある。

 

ジョン・カーペンターの『ザ・フォッグ』とか、スティーヴン・キングの中編小説『霧』を原作とするフランク・ダラボンの『ミスト』とか。ただどちらの作品もたしか、霧の中に何かがいることがわかった段階で不安や恐怖が増幅するのではなかっただろうか。ただただフォッグやミストが街を覆うだけでは、やや不可解ではあるけれど、最後まで霧の中に何かがいることがわからなければ、恐怖映画にはなりえない。不条理な不気味さはあるかもしれないけれど、それは明確な不安や恐怖ではないはずだ。

 

つまり霧の中に恐ろしいことが待ち受けていることが前提としてある映画の中では、霧は扉であり壁であり闇と同義になってしまうのかもしれない。

 

扉や壁や闇の向こうに何かがいる不安とか恐怖、もしくは、自分の進む一分先とか一時間先とか明日に待ち受けている想像範囲内の未知の出来事に対する恐怖や不安というのは、実に日常に密接しているが、霧は少しだけ非日常に属している気がする。

 

だから霧の先の見えない部分には、心惹かれるのかもしれない。

 

そんなことを考えている間に、気がつくと周囲の霧はすっかり消えてしまっていた。

 

ひとりの老人が、消えてしまった霧を見つめるようにして、湖を眺めて笑顔を浮かべていた。彼の目の前には、まだ霧が漂っているのかもしれないと、そう思った。

 

帰りがけに、馴染みのパン屋でバゲットとカンパーニュを買って、家に帰ってきた。カンパーニュは昨日焼いたもので、少し割引になっていた。

 

窓の外で日が暮れゆく。灰色と水色を混ぜ合わせたような雲と薄めたオレンジ色のような空が遠くで静かに抱き合っているのが見える。

 

その姿もやがて見えなくなり、部屋は青黒い闇に包まれつつある。

 

体が冷え切っている。もうこのまま死んでしまってもいいけれど、買ってきたカンパーニュをかじってワインを飲んでからでも、それからでも死ぬのは遅くはないだろう。だから体を温めるために、これから激しく歌い踊りながら夕飯の支度をして、小さな浴槽にたっぷりの湯を張って体を沈めて、死にかけの薬指と小指も沈めて、それから凍りついた部屋の中でパンをかじってワインを飲んで、死ぬのはいまからでもいいだろうと思いながら、冷たい布団に潜り込んで眠ってしまおう。

 

明日自体を思うことは大して不安でもないが、明日の世界に立つ自分を思うと、時々吐き気のするくらいに不安と恐怖を覚えることがある。

 

明日の世界が霧で覆われていて、もっともっと明日の世界の先が見えなければ、不安なんて感じないのかもしれないのに。

 

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月白貉