ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

第十四章 - 肉食

前回の話第十三章 - 闇の中 -『南にある黒い町』

 

体をこわばらせて床に胡座をかくぼくを、猿神は随分長い間、物珍しそうにしながら、しかしじっと睨みつけている。

 

時折、猿神の背後に座っている三つの人影が、それぞれに身を捩らせながら何か小さな言葉を囁き話し合っているような空気の揺らぎが感じられたが、目に映るその姿はもう何百年もそこに置かれた岩石のように不動のまま一切動いてはいなかった。

 

「おまえ、名を持っているようだな。」

 

今までに比べるとずいぶんと静やかな猿神の声が、頭上を掠めるようにして響き渡る。ぼくはその問いに対して戸惑いながらも、静かに首を縦に振る。

 

「なんという名だったか?」

 

ラゴに口を封じられていたぼくは、首を振るだけでは答えられない問いに対して少し困惑したが、しばらく考えてから猿神に向けて、自分の口と首を交互に何度か人差し指で指し示した。

 

「かまわん、好きなように話せ、わしが禁じたことではない。」

 

ぼくは一度小さく口を開いて吐息を漏らしてから、溜息のように声を発する。

 

「ハクトといいます、鹿狩白兎です。」

 

猿神はぼくの言葉に対して何も言わなかった。

 

「あの・・・、聞いてもいいですか・・・?」

 

白猫が何かの匂いを嗅ぐようにしてクンクンと鼻をヒクつかせる。

 

「いいですか・・・?」

 

「なんだ?」

 

「あの、ぼくの体に触れていなくても、あの、猿神さんの声は頭に届くんですか・・・。」

 

「無論だ。」

 

「そうですか・・・。」

 

「あの、いま団地がどうなっているのか・・・、爺ちゃんとか、ラゴさんとか、無事なのか、猿神さんには分かるんですか?」

 

「サルガミ、とかいうおかしな名でわしを呼ぶな、気に障る。」

 

「す、すいません・・・、あの、お名前、なんて呼べば・・・、」

 

「名だと、名などない、呼ぶ必要などない。ここに一体わしと坊主の他に誰がいるのだ?」

 

「はい・・・、いや、あの、後ろの方々は・・・。」

 

白猫はキョトンとした表情を浮かべて黙ったまま後ろを振り返り、再びぼくの方に向き直ると右前足を顔に近づけて顔を何度か擦った。

 

ぼくは何も言わない猿神越しに改めて、闇の奥の明かりを取り囲む人影にじっと目を向けてみた。

 

頭にはまったく髪の毛の生えていない異常に痩せこけた人間が三人、一糸まとわぬ姿で胡座をかいている。その体はそれぞれに所々不自然に湾曲していて、見ようによっては即身仏と化した僧侶のミイラのようだったが、その体からは明らかに何かの営みのようなものが感じられる。そして社の中の闇に満ち満ちている凶々しい殺気は、その三人が発しているもののようだった。

 

暗闇の奥の薄明かりに視線を集中していたぼくは、先ほど猿神が後ろを向いて座っていたさらに奥の闇の中に、誰かまた別の者がいるのことに気が付いた。その何者かはこちらに足を向けてうつ伏せに寝転んでいてやはり一糸まとわぬ姿だったが、どうやら若い女性のようだった。そして胡座をかいて座っている三人と同様にピクリとも動かなかった。

 

「あの・・・、奥にも、もうひとり誰か・・・、」

 

白猫は再び後ろを振り返ってから、また前足で何度か顔を擦った。

 

「あれは、夕餉だろう。」

 

「ユウゲ・・・?」

 

「わしのものではない。彼奴らが喰らうためのものだ。」

 

「喰らう・・・、それは、あの、もしかして人間の・・・、」

 

「そうだ。」

 

三人の人影がこちらに顔を向けてスースーと掠れるような声をあげて笑った気がしたが、その影は一切動いてはいなかった。

 

「後ろにいる人たちは、だ、誰なんですか・・・?」

 

「知りたいのか?」

 

その時突然、おそらくは社の外から、ものすごい爆発音のようなものがこだましたかと思うと、ぼくが座っている真っ暗闇の床が大きく何度かズシンズシンと縦に揺れ動いた。ぼくの脳裏に、団地に現れた巨大な黒い者の影がよぎった。

 

「はっはっはっ、向こうはずいぶん騒がしいな。」

 

「団地ですか!?団地のこと、今どうなってるのか、何かわかるんですか!?」

 

「さあな、わしには関係のないことだ。」

 

「でも、爺ちゃんとラゴさんはっ!?あれからどれくらいの時間が経ったのかもよくわからないし、二人は無事なんでしょうかっ!?」

 

ぼくは思わず白猫に顔を寄せて大声を上げる。

 

「坊主、おまえはどう見る?」

 

「いや、どう見るって言われてもまったくわんないけど、無事じゃなきゃ、ふたりとも無事に帰ってきてくれなきゃ困ります・・・、」

 

白猫の背後の闇に座る人影のひとりが、無言のまま左腕をゆっくりと振り上げ、干からびたような掌をこちらに向けてぼくのことを指差すのが見えた。すると突然、目に見えない鋭い鏃のようなものがこちら目掛けて凄まじいスピードで飛んできて、ぼくの額にグサリと突き刺さった感覚に襲われ、体に痺れるような激しい痛みが走る。ぼくは思わず「うっ!」と声をあげて俯き身を強張らせる。

 

「手を出すなっ!!!!!」

 

猿神が今までになく凄まじい怒号をあげ、周囲の闇を揺れ動かす。

 

三人の人影がまた、喉に空いた小さな穴から息が漏れるようなスースーズーズーという不快な笑い声を上げたような気がした。

 

その瞬間、体の痛みは嘘のように消え去っていた。

 

顔を上げたぼくと白猫が顔を向き合わせながら、しばらくの長い沈黙が流れる。闇の中に漂う不快で凶々しい殺気が、次第に薄まりつつあるように感じた。しかしそれは単に、ぼくがその場の空気に慣れてきただけかもしれなかった。

 

すると、沈黙の中に立ち上る淡い煙のように、猿神が話しだした。

 

「あの者たちがいったい何者なのかは、わしにも確かなことはわからん。しかし、あの者たちはな、わしよりも遥かに前からここにいて、ああやって座っている。」

 

「遥か前っていうのは?」

 

「わからん、遥か前は、遥か前だ。わしもずいぶん長くこの場所にいるが、あの者たちはさらにわしの前から、ここにいる。わしよりも長く、ここにいる者たちだ。かつてはわしと同様に動き回ることもあったが、もうずいぶん長い間、ただああやって座ったまま、ここで穴の番をしている。そして時々、人を喰らう。」

 

「猿神さんと、いや、すいません、あなたとあの人たちは同じなんですか・・・?あの、なんて言ったらいいのかわからないけれど、動物とか人間とか、そういうものじゃあ、ないんですよね・・・?」

 

「わしと同じだ。かつてはわしと同じだったが、だがな、いまはもう違う。」

 

「違うっていうのは・・・、」

 

「わしも同じように人を喰らう。人を喰らうが、喰らうのは人そのものか、あるいは中身だけだ。しかしあの者たちはいつからか、中身だけでなく外の傀儡まで、その血肉をも喰らい始めた。人の血の匂いを好み、肉の味を覚え、それを欲するようになった。その成れの果てが、あの姿だ。それでもまだわずかに正気は残しているようだが、いずれ、それも失うだろう。」

 

「人を、中身をっていうのは?あっ、爺ちゃんが言ってたあの器って話か・・・。」

 

「人を喰らうわしのことが怖ろしいか、坊主?」

 

「・・・、はい・・・、もし自分が喰われると思うと、そりゃ怖いけれど・・・、」

 

「けれど、おまえも他の者を喰らうだろう。それも中身は喰わずに、欲の赴くままに血肉だけをな。」

 

「血肉・・・、はい・・・、食べます。中身ってのはよくわからないけれど、肉は食べます・・・、つまり同じだってことですよね、それと・・・。」

 

「同じなものか、己の行為にある恐ろしさを知らず、それには目を向けずに、他の行為にばかり恐れを見出すこと、それこそ怖れるべきことだ。人の血肉を喰らうようになったあの者たちも、形こそ違えどもいずれそうなる。そして本来の力も役割も失い、抑えられなくなって裂け広がる自分の足元にある穴に飲み込まれるだろう。そして穴の向こう側の者となり、欲望のままに際限なく、あるだけの、喰えるだけの人を喰らうために、ここにまた這い上がってくるだろう。おまえが団地で見た黒い者、あれが、あの者たちの末路だ。」

 

「穴の向こう側の者・・・、」

 

奥の三人は、やはり見た目には一切動いてはいなかったが、ぼくと猿神が話している間中それぞれにこちらを覗き見ながら、スースーズーズーと笑い声をあげているように感じた。

 

「かつては、わしなど到底及ばぬ存在であったあの者たちが、なぜこのような姿に成り果てたのか。穴の奥底の根源たる最黒色の者に知らずして唆され誑かされたのか。あるいは自らに宿していた黒い種が当然のようにして芽吹き育っただけなのか。いずれにせよ、あの者たちも、そしてわしも、穴の底深くに息衝いている決して朽ち果てることのない永劫の最黒色の者から生じた粒に過ぎない。あの深き闇の巨魁に比べれば、弱く小さき存在に過ぎぬのだ。いくらわしが力の限りに足掻こうとも、その力たるや、掌で握り放った後に指に残る砂粒の微々たるものに等しいはず。それをましてや、糧として存在する人の業などではな。」

 

「・・・つまり、ちゃんとはよくわからないけれど、爺ちゃんとかラゴさんに、勝ち目はないってことですか・・・?」

 

「あの婆様が、いったい何を成そうとしているか、にもよるだろうが。それにあの婆様、わしが生じてよりここに至るまでに、あのような頑強で黒い気を放つ人間など、一度として見たことがないわ。爺様の方もそこそこの者だと見るが、比べ物にはならん。団地に姿を現したあの黒い者程度では、茶菓子にもならんはずだ。おそらくだが、あの婆様、人ではなかろう。」

 

「やっぱり・・・。」

 

第十四章 - 肉食

 

 

 

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

人類はなぜ肉食をやめられないのか: 250万年の愛と妄想のはてに

 

 

月白貉