ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第十二章 - 眠り

前回の話第十一章 - 豪腕

 

切通しの緩やかな坂道を一気に滑り降りるようにして走り続けるぼくの背後から、佳子ちゃんの激しく泣き叫ぶような声と、真夜中にどこからともなく聞こえてくる怪しげな鳥の鳴き声のようなギャーギャーという奇声とが入り混じった、耳を劈くような空気の震えがぼくの背中を掻きむしるようにして響き渡り、いま坂の頂上でどんなことが巻き起こっているのかが容易に想像がついた。

 

ぼくの背後の闇の中では、かつてのぼくの友人の妹が、まるで柔らかな魚肉ソーセージでも捻り千切るようにして、その肢体を無残にもぎ取られているはずだった。ドス黒く粘ついた血液を辺り一面に撒き散らし、身悶えながら発する不快な断末魔の声に交じる聞き知った少女の叫びが、少なからずぼくを混乱させた。

 

悲鳴の中には、時折ぼくの名前を呼ぶ声も含まれていた。「カガリさんっ、カガリさんっ、助けて!」と、その声は叫んでいた。それはあるいは本当の佳子ちゃんの声だったのかもしれない。

 

しかし、ぼくは走ることをやめなかったし、後ろを振り返ることもなかった。ぼくはあるだけの力を振り絞って、ただ走り続けた。それが、いまぼくが佳子ちゃんにしてあげることが出来る精一杯のことだと、無言のまま自分に何度も言い聞かせた。

 

坂を駆け下りながらも息の乱れはずいぶん収まっていた。それに伴うようにして口の中でざらついた羽を震わせていた恐怖は、知らない間に口を抜け出しどこかへ飛び去っていた。けれどぼくの目からは涙が流れ落ちていた。眼球から絞り出されたような大きな涙の粒は、ぼくのまぶたから転がり落ちると吹き付ける空気に押しつぶされ、はじけ飛んで頬を濡らした。

 

その涙が、いったい何のために流されているものなのか、そして涙の粒の中からはじけ飛びぼくの皮膚をしめらせているものがいったい何なのか、ぼくにはよくわからなかった。そしてその何かは、ぼくが自らの手で拭う間もなく、周囲の闇の中へと溶け込んでいった。

 

ーーーーーー

 

ぼくのすぐ目の前に坂の終わりが迫った時、聞き覚えのある猿神の咆哮が再び辺りの空気を揺るがせる。地面がブルブルと唸りを上げて揺れ動き、背後に巨大な太陽でも現れたかのようにして、周囲の町の景色が一瞬だけ淡い光に包み込まれる。そして坂下にいるぼくの背中に、突風のような、しかしどこか柔らかな空気の圧が、まるでぼくを後押しでもするかのようにして吹き下ろしてくる。

 

防犯灯の薄明かりが描き出すくすんだ朱色をした鳥居の影が、もう目と鼻の先という距離にまで及んだその時、ふいにぼくを取り巻く空気が一転したかのようにして、まるでいつもと何も変わらないありふれた夜の闇の静寂が辺りを包み込んでいた。

 

ーーーーーー

 

廃神社の鳥居の前に走り着いてから、どのくらいの時が流れ去ったのだろう。

 

ぼくは鳥居の前にひとり呆然として立ち尽くし、自分が今さっき走り抜けてきた暗闇の先に続くアスファルトの道路を、体を凍りつかせたようにじっと動かず、ただただ見つめている。道に沿って不規則に備え付けられたわずかな防犯灯の小さな光に照らされて斑に光と闇を携えたその空間には、いまは人の影も気配も一切存在していない。

 

この場所を祖父とラゴと共に歩き出したあの時と、団地までの距離などから換算して、いまが一体いつごろなのかと推し量ることは、まともな精神状態であれば造作もないことだったに違いない。しかし今のぼくからは、そのあたりまえの感覚が完全に取り去られていた。そして腕時計も携帯電話も手にしていないぼくには、いまがいつなのかということがまったく想像もつかなかったし、それはおそらく想像する必要すらないことのように思えた。

 

鳥居の周囲は優しげに静まり返っていた。聞こえるのは秋の虫たちの小さな羽音と、時折防犯灯が発するジリジリという微かな苛立ちの声だけだった。

 

ぼくは、いつかの夏休みの夜のことを思い出していた。いまぼくが立ち尽くしているこの夜とは違い、その夏の日の夜には、もっとたくさんの音が溢れていたような淡い記憶が、ぼくの体から道端に転げ落ちた気がした。

 

あの夜、ぼくの横には塩田の顔があった。

 

「おれさあ、日が落ちてからこの神社の前通るの、怖くてさ、苦手なんだよなあ。」

 

「はっ!?ってかさあ、おまえが夜に行ってみようって言ったんだろ。」

 

「うん、だって、夜の神社の様子を描いてみたかったから・・・。」

 

「えっ、描くって、境内までいくのかよ?」

 

「うん、いや、昼間みたいにずっといたりしないけど、写真だけ撮ろうと思って。」

 

「上真っ暗だろ・・・、おれ行くのやだなあ。」

 

「あれっ、カガリはそういうの平気って言ってたよな?霊とか信じないって。」

 

「霊とかは信じてないけどさあ、真っ暗闇の神社なんて不気味そうでやだよ、昼間だってそんなに気分のいい場所じゃないし、」

 

「そっかなあ、おれ昼間は全然平気だけど、」

 

「それにさあ、変質者みたいなやつがいたりしたら・・・、違う意味で怖いよ。」

 

「はははっ・・・、それはそれでやだな・・・。でもさあ、なんでまったく同じ場所なのにさあ、昼と夜でこんなに変わっちゃうんだろうな?完全に別世界だし、そういうのって不思議だな。」

 

 「うん・・・、で、本当に上行くの?」

 

「うん、父ちゃんにカメラ借りてきたから。あっ、カガリ下で待っててもいいよ、おれ写真だけ撮ってすぐ戻ってくるから。」

 

「え〜!おれここでひとりで待ってるわけ・・・?」

 

「すぐ戻ってくるから、すぐだから、待ってろよ、じゃあ、おれちょっと行ってくるけど、ひとりで帰るなよ!戻ってきていなくなってたら、すげえ怖いからさあ、待ってろよ、絶対帰るなよな!」

 

あの時、塩田はそう言ってこの神社の鳥居をくぐり抜けて石段を駆け上がり、墨で塗りつぶしたような闇を滲ませる神社の境内に向けて吸い込まれてゆき、ずいぶん長い時間、戻ってはこなかった。

 

ぼくはふとあの夜のことを思い出して、鳥居の奥の暗闇に続く石段に目を向ける。

 

そこには、あの夜とまったく同じ闇が漂っているように感じる。

 

もしかしたら、ぼくはまだ、あの夏の夜にいるのではないのだろうか。いつになっても戻ってこない塩田を待ちくたびれて、暗闇に浮かぶ鳥居の前で立ったまま眠りについてしまったぼくは、長い長い夢を見ているんじゃないのだろうか。あの夜の後に続いていたと思っていたぼくの過ごしてきた日々は現実ではなく、その夢の続きなのではないだろうか。

 

もしそうだとしたなら、今にも塩田が石段を駆け下りてきてぼくを激しく揺り起こし、現実の世界へ引き戻してくれるのではないだろうか。そうして、塩田も塩田の両親も、そして佳子ちゃんも息をして動き回っている現実の世界が、本当の日々が、この瞬間から再びゆっくりと動き出すのではないだろか。

 

そうすれば、この禍獣が群れをなして押し寄せたような忌まわしき数日のことも、昨日見た悪夢と同じようにぼくの記憶の泥土の底深くに永遠に沈み込んでしまい、ぼくを苦しめることは、きっとなくなるに違いない。

 

「なんだよ、おまえ、立ったまま眠ってんのかよ!?おいっ、カガリ、どうしたんだよ?おいっ、起きろよカガリ、どうしちゃったんだよ、目を開けろよ、目を開けろよカガリ!おいっ!どうしたんだよ、起きてくれよ、ふざけてるならもういいよ、わかったよ、わかったから、目を開けてくれよ!おれ、そんなことされたら怖いよ、怖いよカガリ、どうしたんだよ!」

 

カガリさんっ!あたしの腕が引きちぎられてるのっ!カガリさんっ!!!あたしなんでこんなことされるのっ!?あたしがお兄ちゃんの首を引きちぎったからっ!?あたしがパパとママの肉を引き裂いて血をすすったからなのっ!?その罰なのっ?ねえっ、なんでっ、なんでなのっ、怖いよっ、怖いよカガリさんっ!助けてっ!」

 

「塩田・・・、佳子ちゃん・・・、おれだって怖いよ・・・、おれだって、」

 

団地へと続く道の先の暗がりから不意に甲高い赤ん坊のような泣き声があがり、鈍く闇に沈んだアスファルトの上を迷いなく一直線に、白く淡い光を放つ何かがこちらに向けてものすごいスピードで迫ってくるのが見えた。ぼくはすぐにそれが猿神の姿であることを理解したが、唸りを上げんばかりに闇を切り裂くその白い光は、まるでぼくを生贄に捧げるために放たれた白羽の矢のような、貪欲で荒々しい殺気を帯びていた。

 

白猫の姿をして走り来る猿神は瞬く間に鳥居の前に立ち尽くしているぼくの足元まで辿り着くと、それまで放っていた凄まじいばかりの殺気は、シューッという音でも立てて空に立ち上る白い煙のようにして、すっかりと消え失せてしまった。

 

地面にちょこんと座った猿神がぼくのスニーカーの上にゆっくりと右の前足をのせると、頭の中に猿神の声が響いた。

 

「待たせたな、坊主。」

 

第十二章 - 眠り

 

 

 

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月白貉