ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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第十一章 - 豪腕

前回の話第十章 - 新たな悪夢

 

『このまま走り続けろ。』

 

地面から湧き上がるような猿神の声が頭にこだまし、背中から一陣の冷たい風が立ち昇る。するとぼくの頭上から弧を描くようにして、何か淡く白い光の塊のようなものがぼくの駆け上がっている坂道の目の前に降り立ったかと思うと、その先に続く道の上に道標のような光の筋を描いて、まさに白色をした突風さながらの速さで、一直線に坂の上に立つ者を目掛けて向かっていった。

 

ぼくが、猿神の声とその白い道標に従うようにして走り続けながら、自分の両肩にわき目を向けると、それまで肩に食い込んでいた白猫の小さな手が、その姿を消していた。

 

いまぼくの前を走り抜ける白き何者かは、背中に獅噛みついていた白猫だった。

 

白猫はぼくが瞬きするほどのほんの一瞬の内に、坂の上で不気味に両腕と首をうねらせている影の足元まで迫り、そして次の瞬間、地面を蹴り上げて坂の上の者の頭上に至る高さまで垂直に飛び上がったかと思うと、ゆっくりと空中に滞空しながら体を人間のように直立させ、小さな二本の前足を空に掲げるようにして大きく広げた。

 

空を仰ぐように広げられた小さくか細い白猫の二本の足が、その美しく白い毛をたたえる皮膚の下の筋肉がふいに沸騰し出し、ピンク色をした肉が激しく暴れ狂うようにしてボコボコと膨張しながら、まるで金剛仁王像かのような鈍い朱色をして長い白銀の毛を生やした筋骨隆々の腕へと変貌を遂げる。

 

その巨大な猿のような両の豪腕は、間髪容れずに坂の上の者の頭部を小さなミカンでも押しつぶすようにして包み込むと、白猫のままの小さな体を坂の上の者の頭部を軸としてぐるりと半回転させるようにしながら、その首元もろともいとも容易く捻り切り、道脇にある黒々とした木々の奥へと投げ捨てた。

 

さらに白猫は、首をなくしてヨタつく坂の上の者の体を足場としてしなやかに動き回りつつ、その四肢すべてを頭部と同じ要領で次々に捻り切っては闇に包まれた雑木林の中へ投げ込んでいった。次第にその場に近付きつつあり、さらに暗闇に目が慣れつつあったぼくの両眼に映し出されたのは、白いブリーフ一枚だけをその身にまとい、首と四肢を失って全身どす黒い血に塗れた男性が、まるで甲羅に首と四肢を収めたまま裏返され、起き上がれずに悶え苦しんでいる巨大な亀のようにして、地面に横たわって弱々しく藻掻いている姿だった。

 

白猫はその肉塊の脇に二足で立ち、首と手足を失ってもなお蠢き続ける坂の上の者の胴体に右の豪腕を静かに押し付けると、「ヒトツッ!!!」という咆哮を口から言葉に出してハッキリと放ちながら、坂の上の者の胴体もろとも力強く地面に押し付けた。その時、周囲が一瞬真昼のような光に包まれ、ぼくの走っている体が大きく蹌踉めくほどに地面が激しく揺れ動き、そして白猫の体を中心として放たれた凄まじい空気の圧が空間に波紋を描くかのようにして広がり、ぼくの体はおろか暗闇に包まれる雑木林の草木を轟々と揺れ動かした。

 

ぼくが坂の上に達した時、坂の上の者はもはや人の姿など到底留めてはおらず、そこには腐って潰れた巨大なトマトの残骸や荒く挽いたミンチ肉のようなものが、鼻をねじ曲がらせんばかりのひどい悪臭を放ちながら地面にこびり付いていた。そしてその只中の小さな地獄とでも呼べるような場所に涼しい顔をしてちょこんと座っていたのは、返り血を体中に存分かのように浴びて、もはや白猫とは呼べないような毛色をした、白猫だった。

 

白猫は、その横を走り抜けるぼくの顔を一瞬だけで見上げると、ぼくの背後から足をスルスルとのぼり上がり再び背中に獅噛み付いたようで、わき目に映るぼくの両肩には、粘ついた赤黒い液体をたっぷりと染み込ませた小さな白猫の手が食い込んでいて、ぼくの白いシャツにその色を滲ませていた。

 

「このまま走り続けて、先にゆけ。」

 

ぼくの頭の中にその言葉が響いてすぐに、再びぼくの背中に冷たい風が立ち昇り、そして両肩から白猫の手は消え去っていた。

 

目の前に、やけに柔らかな闇を纏った緩やかで長い下り坂が迫っていた。

 

第十一章 - 豪腕

 

 

 

 

月白貉