第十章 - 新たな悪夢
前回の話:第九章 - 猫の爪
曲がりくねった坂を下り終え、その先の住宅街の中にまっすぐと伸びる薄暗闇に包まれた道に弾丸のような速さで突入したぼくは、刹那ほどの時間だけ目を閉じて改めて静かに呼吸を整えなおし、無心に足を駆りたて、手を振り続ける。
背後からは依然として、凄まじい殺気を放つ視線と息遣いが、黒く凍てついた空気を纏って荒れ狂う小さな竜巻のようにして、誰かの血の混じったドロつく唾液と、古から漂い続ける煙のような腐臭を撒き散らしながら、徐々にぼくの体に迫りつつあった。けれどぼくは、自分でも信じられないくらいに落ち着いていた。背後から迫りくる戦慄を頭から完全に消し去ることは不可能だったが、ぼくはその事実だけを純粋にあるがままに理解していた。
道の左右の家々に疎らに灯るほのかな明かりが、古いSF映画のハイパードライブのように流れゆき、正面から吹く風がまるでぼくを堺にして左右に割れるが如く、背後へと消え去ってゆく。
住宅街のど真ん中を突き抜ける道はこの先で、地元でシラホコ様と呼ばれる山を切り崩した切通しの道へと続いている。その切通しまで今の速さのまま走り続ければわずかに数分とかからない。そして、切通しの坂を登って左右に広がる雑木林の中を抜け、さらにその道を下り降りれば目的地の廃神社は目と鼻の先だった。
しかし、団地から随分距離の離れたこの地点に及んでもなお、ぼくの背中にピクリとも動かずに静かにしがみついている白猫の姿をした猿神の口は、一向に開かれなかった。
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シラホコ様の切通しが薄闇の中におぼろげに現れはじめた瞬間、先ほど団地でぼくの身を襲った圧倒的悪夢の残響のような気配が、その切通しの奥の闇の中に靄のように漂っている予感が感じられた。それはジクジクと何かが爛れ腐りはじめる前触れのようなものだった。その時、つい先ほど体を襲った激しい吐き気と便意を体がふいに思い出したかのように、重苦しく鈍い痛みが下腹部の内側でうねるような回転をはじめる。ぼくはその急激に猖獗を極めつつある痛みを押さえつけるために、気付けば徐々に安定を失っていた呼吸を意識して立て直し、へその下の辺りに頑強な球体を膨らませるようなイメージを頭に浮かべながら筋肉を揺り動かし腹部を隆起させる。すると下腹部の痛みは、注連縄を巻きつけた封印石を頭上から押し付けられた地に棲む巨大なナマズのようにして、その力の放出を鎮めてゆく。
「ボォ〜ジイィィィジャァァァ〜ンッ!!!」
背後に粘るようにして食らいついてきているハーフが、禁じられた快楽を極めた時のような不快な絶叫の声で空気を震わせた。ぼくは直感的に、その叫びの中に「お兄ちゃん」という言葉を見出していた。住宅街に伸びる道の両脇に不規則に並んで地面を見下ろしている化石化した樹木のような電信柱の影に、塩田が半身を潜めてぼくのことを睨みつけている姿が見えたような気がした。そして今ぼくの前に茫漠として続く暗がりに並ぶ無数の電信柱のすべてに、塩田の気配が隠れ潜んでいるような呪縛めいたものを感じた。
「ボジギイイィィギャァァァンッ!」
背後で再び響き上がる奇声が、鋭く地を蹴りあらん限りの力で暗闇の住宅街を疾走するぼくの残像を切り裂いていた。
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周囲に外灯の無くなったほぼ漆黒の切り通しに足を踏み入れた瞬間、先ほど感じた悪夢の予感が、現実となってぼくの前に姿を現した。
左右を黒々とした木々に囲まれた切り通しの坂の上の道の真中に、背後から迫りくるハーフと同様の姿をした異常に伸びた四肢を持つ人間のシルエットが、その影の輪郭からわずかに湯気を立てているかのようにして浮かび上がっていた。
背後の追跡者の渦巻く気配は消えてはいない。
闇に煙る坂の上に立つ者は、新たなる悪夢だと、ぼくは否応なしにそう理解する。
「ボギャァァァッ〜!!」
ぼくの背後から何度も放たれる獣のような咆哮に呼応するように、坂の上に立つ者が両腕を巨大な怪鳥のように広げ、完全なる暗黒の中で鼻を利かせるようにして、そして周囲の闇をかき分けるようにして、こちらに向けた顔を何度も左右に大きくゆっくり揺らしながら、坂を駆け上がりつつあるぼくのことを食らいつくように見下ろし、闇で黒く塗りつぶされて見えない口が、嗅ぎ覚えのある凄まじい腐臭を伴った凍てつく風のような息遣いをはじめる。
ぼくの呼吸が、瞬間的に激しく乱れる。
その時、口から吐き出しそこねた空気の隙間から、周囲を飛び交う小さな甲虫のような恐怖が耳障りな羽音を響かせながらぼくの口の中にシュッと入り込み、舌の上に不快にざらついた異物感をもたらす。
ぼくは慌ててその恐怖を吐き出そうとするが、その小さな恐怖は棘付いた何本もの足でしっかりとぼくの舌にしがみつき、さらに喉の奥に向けてジワジワとすすんでゆく。吐き出そうとすればするほど、その塊はさらに喉に近付いてゆき、遂には喉を塞ぐようにしてその内壁面でブズズズと低い音をたてて羽を震わせる。
ぼくは足を止めずに走り続けながらも小さく嗚咽し、その後すぐに、自分の力ではもう取り払うことが出来ないように思える何かを、それでも必死で振り払うようにして、首を何度も激しく振った。
ぼくの頭の中に揺らめいていた、薄明かりに浮かぶくすぶった朱色をした古ぼけた神社の鳥居が、今はるか遠く闇の中に見えなくなりつつあった。
月白貉