ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

第九章 - 猫の爪

前回の話第八章 - 合図

 

ラゴはぼくの頭の中に合図を放つやいなや、ぼくの方には一切顔を向けずにバックパックをブンと振り回して背中に背負い直し、しかしぼくに背を向けたまま大きく右腕を振り上げ、ぼくの方に掌の甲を掲げて手を振った。それがぼくへのエールだったのか、あるいは最後の挨拶だったのか、その時のぼくにはまったく考える余裕などなかった。

 

ただ彼女のその一挙一動が、何故か永遠の時間の中で繰り返される懐かしい思い出のようにだけ感じていた。

 

そしてラゴは、ぼくが彼女に手を振り返すことなどもちろん待たずに、団地脇の暗闇の中に突進するようにして人間離れした異常な速さで走り出し、影も残さずに一瞬の内に姿を消してしまう。

 

今まで周囲を覆っていた膜が消え去ったことで、ぼくはその場が異常な冷気に包まれていることを知る。それはまるで一分と立っていられないような吹雪の雪山に裸で置き去りにされたに等しいと言える、肌を切り裂く凍える寒さだった。

 

カガリィィィ〜さァ〜んっ!」

 

聞き覚えるのある佳子ちゃんの声がすぐ近くで泣き叫ぶようにしてぼくの名前を呼んだことを切っ掛けに、ぼくはラゴの合図から一瞬遅れて団地に背を向け、飛び跳ねるようにして駆け出していた。

 

「ガガガァリイィィィ〜!!!」

 

団地から下るゆるい坂道をスピードの歯止めなど一切考えずに全速力で猛烈に走り続けるぼくの体は、空気抵抗で進行方向とは反対に後ろに吹っ飛んでしまうのではないかと思えるほど、おそらく普段では考えられないくらいのスピードに達していた。その時ちょっとでも何かへの迷いや躊躇があれば、一気に足から崩れ転び、坂の下まで車輪のように転げ落ちていたに違いない。しかしその時のぼくの中には、何か他の一切のことを考えるすきなど微塵もなかった。ただ無心に神社まで走り抜けることだけを考えていたし、あるいはそれすらも考えていなかったかもしれない。自分が走っているということすら、理解し得ない状態だった。背後から舌を伸ばして近付いてくる血に飢えた悪夢のことなどすでに忘れかけるほどに、ただラゴに言われたことだけを抱きかかえ、考えや意思などとは関係なく、ぼくは走っていた。ぼくの肉体がラゴの言葉の純粋な意味だけを理解記憶し、それに従って動いてくれているに過ぎなかった。

 

息はまったく乱れていなかった。そして、迫りくる恐怖はぼくの内側ではなく、外側にのみ存在した。

 

ただ、団地の前を駆け出して坂とその先に広がる暗闇の町を見下ろしたあの一瞬、幼い頃の運動会で走っている小さな体をした自分自身の姿が頭をよぎった。

 

ーーーーーー

 

運動会の50メートル競争に出場したぼくは、「よーいドン」の合図で駆け出した直後に激しく転び、手や膝や顔や、あらゆる場所に傷を負ってしまった。口の中には校庭の土の味が不快に広がり、土埃がぼくの体の周りを小さな羽虫の大群みたいにしてゆっくりと舞っていた。一緒に走り出した同級生の足がどんどんどんどんぼくの視界から遠くに霞んで消えてゆき、ぼくはただひとり置き去りにされてしまう。掌ではジリジリと低温で焼かれるような鈍い痛みが次第に強さを増し、ざらついた傷口からは小さな血液の玉が無数に湧き出してきては弾け、傷口に付着した土と不気味に混じり合っていた。

 

ぼくはあの時、すぐに起き上がることが出来ず、起き上がるという行動さえ考えつかず、ひとり取り残された絶望感と恐怖に打ちひしがれ、目に涙をためたまま長い時間地面に突っ伏して、自分の掌にある血と泥の蠢く沼地のような傷口をただ見つめていた。

 

そして、ぼくはその50メートル競走をリタイアした。

 

結局ぼくは、あの日の50メートル先にあったゴールには永遠にたどり着けずにいるのだ。だからこの瞬間、もしかしたらぼくはあの日と同じようにここで転んでしまい、傷を負って血と涙を流しながら地面に突っ伏し、恐怖と絶望にかられながら友人の妹の姿をした悪夢に首を引きちぎられ、ラゴに言われたゴールに辿り着くことなどやはり永遠に出来ないのではないかという、遠く過去から放たれた薄汚れた矢が体を貫いた。

 

しかし今のぼくは、その矢を無意識の内に瞬時に体から引き抜き、捨て去っていた。その刹那の間にしか身の内に食い込むことがなかった矢傷の痛みはまったく感じず、その傷口からは血も流れ出ておらず、おそらく捨て去った矢の先にさえ、ぼくの血は付着すらしてはいなかっただろう。

 

ーーーーーー

 

坂の終わりが見えた時、再び背後のすぐ近距離から、迫りくるハーフの声が響き渡った。

 

カガリさん、ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!!あたしカガリさんにそんなこと言いたくないのに!そんなこと言ってないのに!勝手に口から出てきちゃって!だって止めることが出来なくって!たすけてください!カガリさん、たすけてっ!!!」

 

それは泣き叫ぶ佳子ちゃんの声だった。

 

ぼくの心がその声で小さく揺らぎ、坂を猛スピードで駆け下りている足にわずかな歯止めが掛かりだす。一瞬でもいいから後ろを振り返って、佳子ちゃんの姿を確かめるべきなのではないかという迷いからだった。ぼくにいま与えられている役目はたったひとつのことだった。それ以外のことをする必要はないはずだった。しかし、もしかしたら今手を差し伸べれば、佳子ちゃんを助けることが出来るのではないかという迷いが、小さな振り子のようにぼくの中で揺れだしていた。

 

あと少しで坂は終わる。そして坂が終わっても、今の状態からすればスピードが落ちるまでにはずいぶんと時間がかかるだろう。そして平坦な道に出れば、いずれ今までよりは確実に自ずとスピードは落ちてしまうだろう。この時点で団地からはもうずいぶん離れたはずだった。だから・・・、

 

心に食い込んできた佳子ちゃんの悲痛な叫び声が、ついさっきまでのぼくの揺れ動き様のないと思われた体を大きく揺さぶり始め、坂を駆け下り続ける足に半ばもつれて転びそうになるほどの大きな歯止めを掛け出していた。

 

「まだだ、もっと先までだ、わしがその時を言い付けるまで、それまでは死ぬ気で走れ。聞かねば、わしが今すぐ坊主の首を引きちぎって喰らうぞ。」

 

頭の中に猿神からの静かなる怒号が飛び交い、いままで一切の感触を感じていなかった両肩に、鋭く太い針でも突き刺されたかのような猫の爪の食い込む激しい痛みが走った。

 

ぼくを揺るがせていた迷いの振り子を、その痛みが彼方に弾き飛ばした。

 

f:id:geppakumujina:20171005163819p:plain

 

 

 

 

月白貉