ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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湖の向こうにいるもう一人のぼくを撮ったけれど、その姿はあまりにも遠かった日記。

湖の向こうにいるもう一人のぼくを撮ったけれど、その姿はあまりにも遠かった日記。

 

二年前の夏、ちょうど今頃、ぼくはある日思い立ってこの湖を歩いて一周した。

 

距離としては約50キロほどあるらしい。

 

この場所から湖の対岸がはっきり見えることは、一年のうちでもあまり多くはない。二年前の夏のあの日、対岸はモヤモヤと煙ったように霞んでいて、ほとんど見えなかった。けれど、ぼくはその見えない場所を目指して歩き出した。

 

今日、湖の向こうを眺めると、対岸の景色がはっきりと目に映った。

 

ぼくはあの日、あの向こう側からもこちらを眺めて、やはり向こう側からもまったくこちらは見えなくて、本当に歩いて帰れるだろうかと不安に思った。でも帰ってきた。朝四時に歩き出して、スタート地点に戻ってきたのは11時間後くらいだった。

 

あの日はひどい残暑で、腕に火傷のような日焼けを負った。後半の数キロは、足がまともに動かなかった。

 

今年もう一度歩きたいと思っているが、実現するかどうかはまだわからない。一度あの辛さを経験しているだけに、もう一度歩くにはちょっとした覚悟が必要なのだ。

 

そして、湖を一周歩いたからといって、何かが手に入るわけではない。無意味だと言われれば、それまでの行為である。でもそれは、今生きているということに似ている。今こうやって生きていることだって、同じようなものだ。無意味だと言えば無意味だ。結局のところ、本質的には、どんな風に生きたって最後に何かが手に入るわけではない。

 

湖一周の最後にはそれなりの達成感がある。けれど、生きるということの最後に、果たして明確な達成感などあるのだろうか。

 

湖一周は最後が見えている。でも生きることの最後は、まったく見えていない。

 

今日、湖の対岸がはっきりと見えていた。もし湖の向こう側にもうひとりぼくがいて、同じようにこちらを眺めていたら、きっと同じように対岸がはっきり見えていただろう。

 

そして今日のぼくと同じように、湖の対岸にレンズを向けて、写真を撮っていただろう。

 

見えている場所を目指して歩くということは、たとえその道程が険しくても、容易なことかもしれない。しかし、見えない場所を目指して歩くということは、その道程がどんなに平坦でも、信じられないほど苦しいに違いない。

 

2017年夏の最後に、湖の向こうにいるもうひとりのぼくに思いを馳せて。

 

今週のお題はてなブログ フォトコンテスト 2017夏」

 

 

 

世界の湖と水環境 (ベルソーブックス)

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世界の湖

世界の湖

 

 

月白貉