湖の向こうにいるもう一人のぼくを撮ったけれど、その姿はあまりにも遠かった日記。
二年前の夏、ちょうど今頃、ぼくはある日思い立ってこの湖を歩いて一周した。
距離としては約50キロほどあるらしい。
この場所から湖の対岸がはっきり見えることは、一年のうちでもあまり多くはない。二年前の夏のあの日、対岸はモヤモヤと煙ったように霞んでいて、ほとんど見えなかった。けれど、ぼくはその見えない場所を目指して歩き出した。
今日、湖の向こうを眺めると、対岸の景色がはっきりと目に映った。
ぼくはあの日、あの向こう側からもこちらを眺めて、やはり向こう側からもまったくこちらは見えなくて、本当に歩いて帰れるだろうかと不安に思った。でも帰ってきた。朝四時に歩き出して、スタート地点に戻ってきたのは11時間後くらいだった。
あの日はひどい残暑で、腕に火傷のような日焼けを負った。後半の数キロは、足がまともに動かなかった。
今年もう一度歩きたいと思っているが、実現するかどうかはまだわからない。一度あの辛さを経験しているだけに、もう一度歩くにはちょっとした覚悟が必要なのだ。
そして、湖を一周歩いたからといって、何かが手に入るわけではない。無意味だと言われれば、それまでの行為である。でもそれは、今生きているということに似ている。今こうやって生きていることだって、同じようなものだ。無意味だと言えば無意味だ。結局のところ、本質的には、どんな風に生きたって最後に何かが手に入るわけではない。
湖一周の最後にはそれなりの達成感がある。けれど、生きるということの最後に、果たして明確な達成感などあるのだろうか。
湖一周は最後が見えている。でも生きることの最後は、まったく見えていない。
今日、湖の対岸がはっきりと見えていた。もし湖の向こう側にもうひとりぼくがいて、同じようにこちらを眺めていたら、きっと同じように対岸がはっきり見えていただろう。
そして今日のぼくと同じように、湖の対岸にレンズを向けて、写真を撮っていただろう。
見えている場所を目指して歩くということは、たとえその道程が険しくても、容易なことかもしれない。しかし、見えない場所を目指して歩くということは、その道程がどんなに平坦でも、信じられないほど苦しいに違いない。
2017年夏の最後に、湖の向こうにいるもうひとりのぼくに思いを馳せて。
月白貉