ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ありふれた恐怖

開け放たれた窓の外から部屋の中に吹き込んで来る風には、どんよりとした微睡みのような生温かい水分が多量に含まれていた。

 

台所のガスコンロの脇の壁に油性のマジックで殴り書かれた文字を残してサチコが姿を消してからちょうど48時間が過ぎた。

 

私は今、その間に起きたすべてのことを記すためにリビングのテーブルに座ってノートパソコンの画面に向かってこれを書いている。

 

二日前の朝、台所の方から響いてきた床を激しく何度も叩くような物音で目を覚ました私がベッドから起き上がって台所に向かうと、台所の床に設けられた排水管につながっているという直径40センチほどの蓋が開け放たれていて、その蓋は赤黒いジャムのような液体でベトベトに濡れていた。

 

この部屋を借りる際に不動産会社の人間から受けた説明によれば、その蓋は生活排水を下水管に送るための排水管をチェックするためのものだということで、基本的には蓋は開けないで欲しいとの注意を受けた。しかし今開け放たれているその蓋の下には排水管などまったく見当たらず、錆びた鉄格子の扉のようなものが設置されていて、その下には地下室のような狭くて薄暗い空間が存在していた。その空間の広さは小さな穴から覗く限りではよく分からなかったが、中から拭き上げてくる風は異常に強いカビ臭を含んでいて、さらにそれよりもなお不快だったのは、大量の腐った魚のような、あるいはヘドロのような鼻がネジ曲がらんばかりの耐えかねる悪臭が、轟々と音でも立てるようにして吹き上がってきていたことだった。

 

その臭いに「うっ!」と声を上げて右手で鼻を覆った私は、その時家の中にサチコの気配がまったく感じられないことに気が付き、何度か声を上げてサチコの名前を呼んでみたが、どこからもサチコの返事は返ってこなかった。

 

流し台に置かれた雑巾を手に取り床の蓋を元の状態に戻した私が立ち上がって台所の壁にふと目を向けると、ちょうどガスコンロの脇のあたりに、黒い文字が書かれていることに気が付いた。それはサチコの筆跡によく似た文字だった。

 

下に何かいる こわい

 

激しい胸騒ぎを覚えた私はすぐにサチコの携帯電話に電話を掛けてみたが、呼び出し音は鳴るもののサチコが電話に出ることはなく、家の中にはやはりサチコはいないようだった。そして家の中から携帯電話もなくなっているようだった。

 

サチコが私に何の声もかけずに外出するということは、いままでの経験から察するにあり得ないことだった。

 

私はもう一度台所の床にしゃがみ込み、蓋を濡らしている液体に顔を近付けてみた。その液体からは濃い血液の匂いが漂っていた。

 

蓋の液体が誰かの、あるいは何かの血液だと知ってから、私が台所の床にどのくらいの時間しゃがみこんでいたのかはよくわからない。しかし部屋の中に唐突に鳴り響いたインターフォンのチャイムで我に返った私が立ち上がって台所の壁に備え付けられたインターフォンのモニターに目を向けると、そこには警察官の格好をした男が二人立っていて、前に立つひとりがカメラを執拗に覗き込んでいた。

 

「こんにちは、朝早くにすみません、こちらは赤森さんのお宅でよろしかったでしょうか?」

 

「はい、赤森ですが。」

 

「わたくし魚瀬町交番のものです。先ほど赤森サチコさんという方から110番通報がありまして、状況確認のために伺わせていただいたのですが、お話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」

 

中年の警察官の話によれば、私がちょうど家の中で物音を聞いた直後の時間帯に、赤森サチコと名乗る女性から警察に110番通報があり、その女性は激しく混乱しているような声で、この家の住所と「助けてください!」という言葉を何度か叫んだ後、電話は切れてしまったということだった。

 

その話を聞いた私は、サチコの安否に対する強い不安のあまりに吐き気を催してしまった。

 

中年の警察官に事情を聞かれた私は気持ちをなんとか落ち着け、自分が目を覚ましてからの経緯を事細かに話すと、二人の警察官は私に了解を得た後に家の中を調べ始めた。

 

家に上がり台所の床の蓋に付着している血液を見た中年の警察官が、「ちょっと失礼します。」と言ってもうひとりに目配せをし一旦家から足早に出ていってしまった。家の中に残ったもう一人の若い警察官の方は、私に都度都度確認を取りながら、すべての部屋とその収納やトイレと風呂場など、家の中にあるすべての空間をチェックして回った。

 

家の中のどこにも、サチコの姿は見当たらなかった。

 

家の中を隈なく調べ終えた若い警察官は最後に、台所の床にしゃがみこんで例の蓋を慎重に開き、ポケットから真っ白い布のようなものを取り出して、同じくポケットから取り出した小さなボトルに入った液体をその布にたっぷりと染み込ませて、蓋やその周囲にこびり付いている血液をすべてキレイに拭き取ってしまった。

 

「赤森さん、このあと交番で簡単な事情聴取をさせていただきたいのですが、ご都合はよろしいですか?」

 

「あ、はい、大丈夫ですが、でもあの、蓋の下の部屋みたいな場所は・・・、確認しないんですか?」

 

「蓋の下と採取した血液に関しては改めて別の者が調べますので。」

 

そして若い方の警察官も「ちょっと失礼します。」と言って家から足早に出ていった。しかしその後、いくら待っても二人の警察官が再び戻ってくることはなく、中年の警察官に伝えた私の電話番号に連絡が入ることもなかった。不安になった私は110番に電話を掛け、今までの経緯と二人の警察官のことを尋ねたのだが、警察によれば魚瀬町交番から私の自宅に警察官が向かったということはないし、赤森サチコという女性から私が話に聞いたような通報も入っていないとのことだった。

 

私が改めて警察に今までの経緯を話すと、それからしばらくしてひとりの若い警察官が家を訪れた。

 

そして同じように家の中を隈なく調べ、最後に台所の床の蓋を開けると、そこには先ほど私が目にした鉄格子はなくなっていて、薄汚れたコンクリートで埋め立てられていた。

 

「蓋の下には何もありませんし、血も付いていませんね。」

 

「いや、そんな・・・、だってさっきまでここに鉄格子があって、その下に部屋のようなものがあったんですよ!妻だって、ほら壁におかしなメッセージを書いていなくなってるんですよ!それにさっき警察だと言って家に入ってきた二人は一体誰なんですか!?そのひとりが血液を拭き去ってしまったんですよ!」

 

「奥さんがいなくなる前に、例えば昨夜、奥さんと喧嘩などされませんでしたか?」

 

「いえ、そんなことはありません。」

 

「そうですか、では、奥さんがご自宅からいなくなってからまだそれほど時間が経っていませんから、例えば急な用事でどこかに外出されたとか、あるいは、壁の文字に関しては奥さんの冗談かいたずらだという可能性はありませんか?」

 

「いったいなんの冗談ですか!?それに蓋には血がベットリと付いていたし、本当にその下に部屋があったんですよ!妻が何か事件に巻き込まれているのかも知れないでしょ!」

 

その後、私は交番で事情聴取を受け、妻の失踪に関しては捜索願を受理された。

 

交番で手続きを済ませてからすぐに、私は部屋を管理している不動産会社に連絡を取り、台所の床に設置してある蓋のことについて問い合わせてみた。しかし事情を話していくら問いただしても、「内見の際にお話した通り、蓋の下は排水管が通っているだけで、その排水管はご覧頂いたコンクリートの下を通っていますから」という回答しか得られなかった。

 

私は帰宅後すぐに再び台所の床の蓋を躊躇なく開いてみたが、やはりそこには鉄格子の扉はなくなっていて、冷た気なコンクリートが見えるばかりだった。 

 

そして48時間が経過した今、サチコからの連絡は一切なく、こちらからの電話もまったくつながらない。いまだに警察からは、サチコの失踪に関して何の連絡も入ってこない。 

 

神経質なサチコはこの部屋に越してきてから、排水口からすごく嫌な臭いがすると何度となく私に訴えていた。けれど、どこの家だって排水口に鼻を近付ければ、それなりに嫌な臭いはするだろうと、私はその話をあまり相手にはしなかった。

 

「違うのよ、そういう臭いじゃないの!もっと何か、深い暗がりを覗き込んだ時の恐怖感みたいな、その臭いを吸い込んだらアタシの体が何かに侵されてしまうような、すごく気持ちの悪い臭いがするのよ!」

 

私はこの48時間まともに睡眠を取っていない。そのため時折、瞬間的に気絶するようにして意識が遠のくことが続いている。その途切れた記憶の中で私が目にするのは、床下の薄汚い牢獄のような場所で、悪臭漂う見たこともない生き物に体を貪り食われているサチコの姿だった。

 

この文章を書き終えたら、私はサチコを助けに行かなければならない。あのコンクリートを剥ぎ取り、その下の錆びついた鉄格子をこじ開け、あの悪夢のような臭いが充満する暗い部屋に閉じ込められて、今まさに何かに貪り食われようとして泣き叫んでいるサチコを、私は助けにいかなければならない。

 

 

 

死んだ祖父が、まだ私が幼い頃に話してくれた話は、すべて恐怖譚だった。そして話の最後に祖父は必ず付け加えた。今話したことはすべて本当の話だと。

 

「日常では考えられないような恐怖こそ、お前のすぐ傍に、お前のすぐ頭上に、お前のすぐ足元に、お前の吐く息が届くほどのすぐ近くに潜んでいる。だから恐怖なのだ。それこそが本当の恐怖と成りうるのだ。私の母親は、裏山に住む白い何かに喰われて死んだ。私は見ていた。母親が喰われるのをブルブル震えて見ていた。死体は見つからなかった。山で遭難して死んだのだろうと言われた。でも違うんだよ、白い色をした大きな何かに捕まって喰われたんだ。私はそれを見ていたんだから。」

 

窓の外ではいつの間にか雨が降り出し、強さを増した風がその雨の匂いを部屋の中に連れ込んできていた。その雨の匂いの中に、台所の床の蓋の底から沸き上がってきたあの腐れたような何かの臭いが、微かに紛れ込んでいるような気がした。

 

ありふれた恐怖

 

 

 

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月白貉