ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ダンテの名を持つ喫茶店と、本当はコワい絵画の失われた記憶。

前回まで知らないはずのメールアドレスに届く、本当はコワい知人のメール。

 

午前9時ちょうどにイグチさんの自宅前に到着し、玄関に備え付けられたインターフォンのチャイムボタンを押すと、「は〜い!」というイグチさんの奥さんの声が家の中から響いてきた。そしてバタバタと板の間を小走りする足音が次第に玄関に近付いてきて、曇りガラスの引き戸がガラガラと勢い良く音を立てて開いた。

 

私が「おはようございます。」という挨拶をしかけた時、その言葉に覆いかぶせるようにして奥さんのミチコさんが「本当に申し訳ありません!」というかん高い声を上げた。

 

「本当にわざわざお越しいただいたのに申し訳ありません。実は主人が急な用事ができたとかで、ついさっき車でどこかに出かけてしまったんですよ。シロキさんにはまだ伝えていないから、申し訳ないけれど謝っておいてくれと言い付かりまして、本当に勝手なことで申し訳ありません。」

 

「ああ、そうでしたか。いやいや、私も出かける用事があって、その序でしたので。それに急にお声がけしたのは私の方ですから、お気になさらないで下さい。」

 

「どうも本当に申し訳ありませんでした。いつもは約束をすっぽかすような人じゃあないんですけれど、時々急に人が変わったようになることがありましてねえ、あの、もしよろしければせっかくなので、あがってお茶でも飲んでいかれませんか?」

 

ミチコさんはそう言いながら、何度も何度も頭を下げていた。

 

「あ、でもこんな早くからで、お邪魔になってしまってもあれなので、また出直させていただきます。」

 

「そうですか、本当に申し訳ありませんでした。じゃあまた、例の食事会もまたやりますんで、モミさんとご一緒にいらしてくださいね。」

 

「はい、ぜひまた参加させていただきます。では今日は、失礼します。」

 

閉められた引き戸に背を向けてふと玄関の脇を見ると、焼き物の火鉢に水を張った中にたくさんの水草が入れられていて、その中に気持ちよさそうにたくさんのメダカが泳ぎ回っていた。今まで何度もイグチさんの家には訪れてきているが、果たしてこんなものが置かれていただろうかと、何か夢の記憶を思い出せないような気分になった。

 

イグチさんの家を後にしてから、私は不動産会社のある駅前に向かうために最寄りのバス停のベンチに座って本数の少ないバスを待ちながら、持ってきた小説のページをあまり真剣に読むでもなくパラパラとめくって時間を潰した。そして40分ほどしてようやくやって来たバスに乗り込み、駅前についたのは午前10時を少し過ぎた頃だった。不動産会社のサカザキさんと約束した午後1時までにはまだ随分と時間があったため、私は駅前から少し離れた場所にある行き付けの古びた喫茶店で珈琲でも飲もうと思い、昇り来る夏の太陽の光によって徐々に気温が上がりつつある、キラキラと煌く駅前の小さな商店街を通り抜けて、その外れにある喫茶店へと歩を進めた。

 

その喫茶店はアリギエーリという名前を持っていた。

 

一度だけ無口な店主に店名の由来はダンテの名前かと聞いたことがある。店主はグラスを磨きながら「もちろんそうだ。」と言って不機嫌そうな顔を浮かべたことを覚えている。

 

「ほんとうはダンテにしたかったんだけれど、その頃近所にダンテっていう名の喫茶店があってねえ。インスタントみたいなひどい珈琲を出すのに値段はめっぽう高くてね、ひどい店だったよ。その名前も噂によればどこぞにある珈琲のうまい名店の名前の真似だったそうでね。でも先にその名前で店を出されちゃったからさ、同じ名前で近所に店を出すのは真似したみたいで嫌だろ。だからこの名前になったというわけ。ダンテはもうずいぶん前に潰れちまったけれどね。潰れちまった店の名前にわざわざ変えるなんて縁起が悪いじゃないか。だからこの名前のままさ。」

 

店内は照明のほとんどないずいぶん薄暗い空間だったが、いつ訪れても地元の上品そうな老人たちで溢れていて、彼らは一人一人がその店のユニークな照明器具なのではないかというような不思議な光を放つ人物ばかりだった。おそらく客はほぼ常連しか訪れない店のいたるところでは、何度も何度も挨拶が交わされたり、数人で熱心に話し込んでいるような場面をよく目にした。けれどなぜか店内は、ほとんど無音に近いくらいの静寂が保たれているような雰囲気があり、ずいぶんと心地よい空間だった。

 

私は店を訪れると大抵、店内の端にある小さな一人掛けのソファー席を陣取ることにしていた。そこから見える店の中央の壁に飾られた大きな絵画をあてもなく眺めるのを好んだからだった。その絵はずいぶん大きなもので、薄暗い店内でぱっと観ただけだと、壁の模様に同化してしまいそうな抽象画のように思えたが、それは抽象画ではなく、フォーカスが合っていないモノクロ写真のような暗いタッチで描かれた聖書か神話かをモチーフにしたような絵画だった。具体的には、悪魔のような怪物のような巨大な生き物の口の中で噛み砕かれつつある、傷だらけで血を流した無数の人々の苦悩の姿が描かれていた。

 

内容的にはずいぶん禍々しく恐ろしい情景が描き出されたものだったが、一方で長く観ていると深い眠りに引き込まれてゆくような不思議な魅力をもったものでもあった。

 

その絵に関しても私は一度店主に聞いてみたことがあったが、店名の時と同じように、いつもは無口な店主の口数がやけに増えたことを覚えている。

 

「ぼくが描いたんだよ。ずいぶん若い頃にねえ。今じゃあめったに絵なんか描かなくなっちゃったけど、若い頃に美術を学んでてね。学校を出てからもしばらくはデザインの仕事なんかしてたこともあったけれど、でもある時期に精神的に病んじゃって、スランプに陥ってしまって、いいものが一向に出来なくなってねえ。絵やなんかを仕事にするのはやめちゃったよ。でもその数年後に、バイクで事故を起こして死にかけてね。その後、怪我がある程度治ってから無性に絵が描きたくなって、寝る間も惜しんで狂ったみたいに描き上げたのがこの絵なんだよ。でも、あの時のことは、絵を描いてる時のことはまったく覚えてないし、なんでこんな絵を描いたんだろうなあってのがよく思い出せなくてね。だからこうしていつも目の前に置いとけばさ、何か思い出すだろうと思って、店に飾ってるんだよ。」

 

ダンテの名を持つ喫茶店と、本当はコワい絵画の失われた記憶。

 

 

 

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

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やさしいダンテ<神曲> (角川文庫)

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月白貉