ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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神社脇の池にいる、本当はコワい緑色の物理学者。

2017年7月4日午前3時52分、グズグズと爛れたような湿気を帯びた夏の夜はまだ明けていなかった。

 

昨日、久しぶりに再会した同郷の友人と午後の早い時間から酒を飲みはじめた私は、気が付くと自宅の玄関先に突っ伏していて、妻が私の体を激しく揺さぶっていた。まったく状況はわからなかったが、私はそのまま風呂場の脱衣所に向かい服を脱いで洗濯かごに放り込み、シャワーを浴びた。細かな無数の水玉に体を打たれながらふと足元に目をやると、赤い色をした龍が空を舞いながら軌跡を描くようにして、水に混じった血液が排水溝に流れ込んでゆくのが見えた。その龍の尾は私の膝に出来た傷口に繋がっていた。

 

最後に覚えているのは、二軒目の店を出てすぐに友人のサカザキが激しい尿意に襲われ、トイレに行ってくると言って商店街の裏路地に走って行ったまま姿を消し、まったく戻って来なかったことだった。どうやって帰宅したのか、サカザキはどこへ行ったのか、そしてなぜ右膝を怪我しているのかは、まったく記憶に残っていなかった。

 

シャワーの水を一旦止めた私は風呂場の戸を開き、妻に声を掛けた。

 

「アキちゃん、ごめん、足に怪我してるみたいなので、絆創膏を持ってきてもらえるかな。」

 

しばらくすると、アキが心配そうな表情を浮かべながら手に絆創膏を持って小走りにやってきた。

 

「どうしたの?」

 

「いや、よく覚えていないんだけど、転びでもしたのかな。」

 

「大丈夫?」

 

「うん、大したことないよ。」

 

シャワーを浴び終えて体をバスタオルで入念に拭き、アキが用意してくれていたTシャツと短パンに着替えてからリビングに向かうと、アキがテレビを観ながら夕食を食べていた。ハンバーグと、レタスとトマトのサラダと味噌汁と白米、私が家を出る前に言っていた献立の通りだった。

 

「シャツに変な緑色のシミがあったけど、転んだ時に付いたのかな?今日は水でだけ流し洗いしておいたから、あしたちゃんと洗うね。」

 

私はその話の内容をあまり把握しないまま適当に相槌を打ち、壁に掛けられた時計に目を向けた。

 

時計の針は午後7時37分を指していた。

 

記憶をなくすほどに酒を飲んだのは久しぶりだったが、その時頭はやけにクリアになっていて、なぜか激しい運動でもした後の心地よい気だるさのようなものが体に抱きついていた。どう考えても大量のアルコールを摂取した後のようには思えなかった。そして特に眠いということもなかったのだがそのまま寝室にゆき、布団に潜り込んだ。少しぼんやりとしながらすぐに起き上がろうと思っていた私はそのまま眠りに落ちてしまい、再び目を開けて寝室の時計に目をやると、次の日の午前3時52分だった。

 

アキは毎日怖ろしいほどに早起きをしてジョギングに向かうため、すでに私の横にはいなくなっていた。夏でもまだ日が昇っていないような早朝、ほとんど夜だと言ってよい暗闇に包まれた時間帯に女性がひとりで外を走り回るのことにはいささかの不安があった。ただアキは大学の頃に、コンバット・サンボとかいうロシアの特殊な格闘技のサークルに所属していた経験があるそうで、今でも週に一度また別の格闘技のスクールに通っているほどの格闘技マニアだった。まだ私と出会う前には、実践を想定した海外の女性専用トレーニングキャンプに参加し、まさに実戦さながらの戦闘訓練まで受けたということだった。そのスキルを活かして、町内の有志で行われている護身術の講義などにボランティアのアドバイザーとして参加するようなこともあった。

 

そのため当初、早朝のジョギングのことを心配していた私に対して、アキは冗談でも口にするようにして、「スイッチ入ったら相手殺しちゃうかもだから、そっちのほう心配しててね。」と言ってウインクをした。

 

布団から起き上がって携帯電話を確認したが、サカザキからは着信もメールも入っていないようだった。私はトイレと歯磨きを済ませてから台所にゆき、朝食の準備に取り掛かった。

 

目玉焼きとサラダとソーセージをふたつの皿に盛り付け終わったのと同時に、玄関のドアが開く音がしてアキがジョギングから帰ってきた。私が流し台に向かいながら背後のアキに「おはよう。」と声をかけるが返事がない。どうしたのかと思って振り返ると、少し顔を青ざめた汗だくのアキがこちらをジッと見つめて突っ立ていた。

 

「どうかした?」

 

アキは無言のままピクリとも動かなかったが、間を置いてズボンのポケットから取り出したタオルで顔の汗を拭った。

 

「シンヤ、この間・・・、」

 

「うん、この間どうしたの?」

 

「神社の横の池に何かいるって言ってたでしょ。」

 

私は一度流し台に振り返ってコップに水を汲みアキに差し出した。

 

「ああ、あれはまあ冗談というか、言い伝えがあるよって話でしょ。昔よく子供とか女性があの池で溺れて死んだとかで、何かに引き込まれるんだとかいう伝説があるらしいよって話をしたかもね。」

 

「今、アタシ、池で・・・、」

 

アキが両手を私の方に差し出すと、その掌や腕には何か濃い緑色をした液体のようなものがベットリと付着していて、よく見ると彼女のグレーのトレーニングウェアにも同様の緑の液体が飛び散ったようにして染み付いていた。

 

それを目にした瞬間、正体のわからない不穏な影が私の脳裏をよぎり、背中に氷でできた薄いシートでも被せられたようにして、体中にチクチクとした冷気が走った。

 

「えっ、それは・・・?」

 

「今、アタシ、池のところでね、変なベトベトした人間みたいなものに後ろから羽交い締めにされてね、瞬発的に勝手に体が動いちゃって・・・、でも相手がすごい力だったから、本気になっちゃって・・・、ちょっと、今すぐ一緒に来て、はやく!」

 

私はアキに手を引かれて半ば放心状態のまま、小走りで近所の神社の脇にある池に向かった。アキの手にこびり付いている嫌な感触の緑の液体が、私の手にも這い上がってくるようにしてまとわり付いていた。

 

池に辿り着く直前、前を走るアキの背中越しに私の目に映ったのは、30メートルほど先の薄ぼんやりとした外灯の光に照らされている池の脇の道路に、人の形をした深緑色の影のようなものが横たわっている姿だった。それを目にした私はその時心臓をギュッと掴まれたような息苦しさを感じ、アキの肩に手を掛けようとした。

 

「ちょっとまって、ちょっとまって、あれなにっ!」

 

私の手がアキの肩に触れたと思った瞬間、そこにはアキの肩はなく、私の手は空を切り、体制を崩した私はそのまま道路に滑り込むようにして前のめりに転んで右膝を強く打ち付けてしまった。私はその体勢のまま再び周囲に目を向けたのだが、今さっきまで私の目の前を走っていたはずのアキの姿が掻き消されたようにしてなくなっていた。すると唐突に短パンのポケットに入れていた携帯電話のバイブレーションが震えだした。

 

目の前の薄暗いアスファルトの上には依然として緑色の何かが横たわっていて、遠目にゴゾゴゾと動いているようにも見えた。

 

私はすぐに立ち上がって携帯電話をポケットから取り出し手にとって見ると、着信はサカザキからのものだったが、私が通話ボタンを押そうと思った瞬間に電話は切れてしまった。

 

携帯電話には、2017年7月3日18時28分という現在の時刻が光っていた。

 

神社脇の池にいる、本当はコワい緑色の物理学者。

 

 

 

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月白貉