部屋が異常に寒い時に確認すべき、風呂場の地下にあるコワい空洞の話。
近所の精肉店で牛の生レバーを買い終えて家に帰宅すると、やはり部屋の中がやけに寒かった。
もう夏も間近だというのに家の中が異常に寒くないかと、ことさらに妻が強く訴えだしたのは、今朝のことだ。
部屋は集合住宅の一階にある鉄骨コンクリート製の築40年ほどになるアパートメントだった。南向きの大きな窓とベランダがあり日当たりもよい2LDKの部屋で、周囲は畑に囲まれているため高い建物などは一切なく風通しも申し分ないものだった。しかしここで暮らし始めてから半年が経ったある日、妻が妙なことを口に出した。この部屋で過去に何か忌まわしいことでもあったのではないだろうかと、疑りだしたのである。なぜそんなことを突然言い出すのかと問うてみると、部屋の中の温度が異常なくらい低く感じるということだった。妻がその言葉を口に出したのは4月のはじめだった。それまでの半年間は冬期だったということもあり、日本の気候から考えても当然部屋の中の温度は低いので、私も同じように寒さを感じてはいたが、それはもちろん季節のせいだと思っていた。暖房器具に頼らなければこの部屋に限らずほぼ平等に、どこの家の中もある程度は寒いだろう。だからその寒さに関してはさして気にもしていなかったのだが、妻はその冬の間からすでに、部屋の中の寒さが尋常ではないと感じていたとその時私に打ち明けた。妻もはじめは当然、あたり前のことだと思うようにしていたという。
けれど冬も終わり春めいてきた頃になっても、時折室内で吐く息が白くなるほどに、部屋の中は冷気に包まれたままだった。
神経質な妻はそのことでひどく気を病んでいたようで、遠方の実家に暮らす兄に電話でそのことを打ち明けたところ、兄からの助言としてその物件の過去を調べてみるべきだと言われたという。そういったことに頓着の薄い私が一体それはどういう意味だと聞き返すと、妻は兄が直接的なことを言ったのではないけれどと付け加えつつ、その兄の言葉に対する自分の理解としては、この部屋で過去に人が異常な死に方をしているのではないのかという意味に捉えたということだった。
つまり、この部屋の寒さは季節や立地あるいは建物の構造によるものではなく、他に何理由があるのではないのかというのが、妻の率直な考えのようだった。
不動産業界で働く知り合いに聞いたことがあるが、過去に特殊な出来事が起きた物件に関してはそれを借り主に情報公開する義務があるということだった。それを過去何年まで遡るとかいう時効云々があるのかどうかは聞かなかったので定かではないし、建物に関してのことには触れるだろうけれど、更に昔の土地にまつわることまでに責任が及ぶのかという話になれば、それはまた別の問題なのではないのかと、話を聞いた際にふとそんなことを思った記憶がある。けれど、この部屋を借りる際には不動産会社からそういった話は聞かされてはいなかったし、そんなことは気にも留めていなかった。そのため私は妻を安心させるために、その義務のことも含めて話をしたが、それでも一度確かめてくれと何度も繰り返し私に訴えたのだった。
私は牛の生レバーの袋に入れられた保冷剤を台所の流し台に取り出してから、新聞紙に包まれたレバーを冷蔵庫のチルド室の奥に仕舞い込んだ。そしてその場でズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、部屋の管理をしている不動産会社に電話を掛けてみた。妻に言われた通りに、この部屋で妻が言うような出来事が起こったのかをどうかを改めて確かめるためだった。
トゥルルルルという電話の呼出音を聞きながらふと冷蔵庫のドアに目を向けると、妻からの伝言がポストイットに殴り書かれたメモが貼られていた。その内容を読むとも読まないともなく、なんとなくそこに視線を流しながらしばらく時が流れたが、電話は何度呼び出しても一向に繋がらず、留守番電話や営業時間外のメッセージも再生されなかった。時間は日曜日の午後一時を少し過ぎた頃だったが、あの不動産会社は日曜日は休業日だっただろうかと頭の中で記憶の片隅を探りながら、電話は切らずにそのまましばらく妻のメモの方をぼんやりと見つめていると、ふとおかしなことに気が付いたので一旦電話を切り、貼り付けてあるポストイットを剥がしてマジマジとその文字に目を向けてみた。
「部屋でおかしなことがあって怖いからあなたに電話をしたのだけれど、いくら掛けても繋がらないのでいまから外に出ます。風呂場を掃除していたら排水溝の下にいびつな男がい・・・」
そこで文字は途切れていた。
すぐに手に持っていた携帯電話の着信履歴を確認してみたが、そこに妻から電話がかかってきたという着信履歴はまったく残っていなかった。おかしな胸騒ぎがしてすぐに妻の携帯電話に電話を掛けてみたが、電波の届かないところにいるか電源が入っていないというメッセージが流れるばかりで、何度掛けなおしても一向に繋がらなかった。
その時突然、家の中で床に何かを叩きつけるような大きな音が鳴り響いたかと思うと、部屋の中の温度が急激に下がったような感覚があり、背中から両腕にかけて凄まじい鳥肌がザワザワという音を響かせんばかりに走り立った。その音は風呂場から聞こえてきたようだった。私がすぐに風呂場に飛んでゆくと、洗面台のある脱衣所の空間がまるで冷凍庫の中のような想像だにしない冷気で満ち溢れていて、その床が氷のように冷たい水でびしょびしょに濡れていた。驚いた私が思わず「わあああっ!」と大きな叫び声を上げると、ドアが開け放たれていた薄暗い風呂場の奥から、私の叫び声に覆いかぶさるようにして掠れた甲高い笑い声があがった。
わけのわからなくなった私が自分の叫び声を押し込めるように左手で口を抑えて風呂場の中に目をやると、風呂場の入口から半分だけ見えている闇に沈んだ浴槽の中に、全裸の老婆のような姿がはっきりと見て取れた。その老婆は湯のはられていない浴槽に全身を沈めるようにして横たわって、喉に穴でも開いているのかと思うよな引き笑いの声を響かせながら、コチラに向けて干乾びたような手の先に伸びる人差し指を突き立てて私を指差していた。
瞬間的に身を襲った怖ろしさと寒さでブルブルと震える体を両手で必死に抑えながら後ずさりして脱衣所から出た私は、残像が見えるほどに痙攣を続ける右手で必死に携帯電話を握り締め、状況の意味すらわからないまま再び妻の携帯電話に電話を掛けていた。
私の耳元で鳴り響き出したトゥルルルルという呼び出し音と同時に、冷気と闇に包まれた風呂場の方から、妻の持つ携帯電話の着信音が響き渡ってきた。
同時に引き笑い続ける老婆の声が言葉に変わり、水浸しの脱衣所の端から強い腐臭が漂ってくるかのごとくに私の体に近付いてきた。
「おさるさんが・・・、ひとをくっとる・・・・、おさるさんが・・・、おみずをのんどる・・・、ヒヒヒヒヒヒヒヒヒ・・・」
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