ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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海の水がもしビールだったとしても、ぼくは1年間に500mlしかビールは飲まない日記。

ぼくはほぼ毎日晩酌をする。

 

49度くらいの高熱を出すとか、舌先を5cmほど噛みちぎってしまうとか、ヒマラヤで遭難するとか、そういうのっぴきならないことがない限り、ほぼ毎日晩酌をする。

 

大抵ははじめにビールを少しだけ飲んで、あとはワインとか日本酒とか。

 

ただ、ここ2年ほどはビールをまったく飲まなくなった。あえてはじめの一杯か二杯のビールというものを断ってみたのである。そうしたら、特にはじめにビールを飲みたいと欲することがなくなった。ここ2年ほどの間に飲んだビールの量は、おそらく1リットルに満たない。

 

時々夏の暑い時期に、それこそ最高気温が52度くらいある日に、大量の汗を流して、「嗚呼、たまにはビールでも飲んでみようか。」という時くらいにしか飲まなかった。

 

晩酌の際に、はじめにまずビールを飲むという人は異常なほど多いと思う。乾杯は必ずビールだったり、居酒屋に入れば「とりあえず生ビール。」とうわ言のように口走ったり、テレビでは真夏にも真冬にも一年中ビールのコマーシャルをしていたりする。

 

特にビールがイケないわけではないし、然るべき時に飲むビールは非常に美味しい。しかし、それは欲した時に飲めばいいわけであって、まず一杯目はとか、乾杯はとか、とりあえずとか、あの薬物中毒的な常習性はおかしいなということに、無駄にビールを飲まなくなってはたと気が付いたわけである。

 

あれは結局なんらかの陰謀に近いものであり、飲酒の際にはまずはじめにビールを飲まなければいけないという洗脳が見えない巨大な力によって行われていると、そう考えても何らおかしくはない。

 

結局現代社会のビジネスというものは、生きてゆくにはほぼ必要ないものを、如何にして人々にあたかも必須のものだと思い込ませるかということに特化してしまっている。つまりビールに限らず、多くの企業が担っているほとんどのものが、不必要なものであって、それに気が付かずに、ぼくたちは知らず知らずのうちにその不必要なものにまみれて、それに大量の金を注ぎ込んで生きているわけであり、そうするとだよ、考え様によっては、生きてゆくために金が必要なのではなくて、不必要なものを買うために金が必要なわけであって、その不必要なものを洗脳によって人々に売り込み金を稼いでいる人々も同じように、生きてゆくために金を稼いでいるわけではなくて、結局彼らもまた別の不必要なものを買うために金を稼いでいるわけである。

 

だから人々が不必要なものを欲しなくなれば、不必要なものに関連して動く金というものの流れは無くなるわけであり、極端な話をすれば生きてゆくために金なんて必要ないよね、というところまで回帰するはずである。

 

ぼくがビールをほとんど飲まなくなって薄っすら気が付いたことは、いま、この世界は確実に狂っているということ。

 

さて、きょうは久しぶりにビールでも飲むか。

 

海の水がもしビールだったとしても、ぼくは1年間に500mlしかビールは飲まない日記。

 

 

 

 

月白貉 - Mujina Tsukishiro