ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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林檎と鯨と、キングコングの話。

昨日の午後、何か映画を観ようと思ってDVDが詰まった棚を掻き混ぜていて、ずいぶん昔に買ったのに観ていなかった『サイダーハウス・ルール』(The Cider House Rules)を観ることにした。

 

ちなみにジョン・アーヴィングの原作を読んだことはないし、ラッセ・ハルストレムの作品も幾つかしか観たことはない。

 

まあ結論から言うと、寒い冬の午後に観るには最適な映画だったし、とても良い映画でちょっと泣いちゃった。ぼくの今の家は暖房器具が一切ないので、ここ数日の寒波到来中なんて極寒、外よりも寒いってことはないけれど、下手したら死ぬくらいに寒い。逆に夏はすごく涼しいのだけれど、あまりに室内の温度が低いので超常的な原因を真剣に疑っている。時々煙臭がしたり、赤ん坊の鳴き声が聞こえたりするからさらに怪しい。まあそれはさておき、ベッドをソファー代わりにして布団を何枚もかぶって、『サイダーハウス・ルール』を観て、少しの涙と鼻水が掛け布団に音を立てて垂れた。

 

物語自体はよくよく考えたら深刻な内容なのだが、なんだか瑞々しい映画だった。

 

ぼくは基本的に映画の感想を文章に書くことが好きではない。だからウェブログなんかで映画のことばかり書いてるけれど、ほとんど感想らしい感想も、いわゆる評論的なことも滅多なことがない限り書いていないと思う。ごくごく個人的な淡い思いなんかをあらすじに加えて書いているくらいで、あとは全く関係ないことを書くようにしている。

 

好きではないというのは、厳密に言うと、ある程度意思の疎通が可能な人以外に、自分の映画に対する思いを真剣に語ることを好まないと言ったほうが、たぶん正確。それは映画の感想に限ったことではなく人生全般の話かもしれないけれど。だから一緒に映画を観た人とお酒を飲みながら延々とその作品ついてゆっくり話したりする時間は大好きだし、なんて幸せなんだろうと思う。

 

そういうルールは自分で決めればいいし、誰かに決められたりつべこべ意見を言われる筋合いのものではない。『サイダーハウス・ルール』の中で、ミスター・ローズを演じるデルロイ・リンドーがそんなようなことを言っていた。デルロイ・リンドーはなかなか好きな俳優だというのもあるけれど、けっこう印象的な場面だった。好きな俳優が放つ台詞って、案外心に入り込みやすい。

 

ぼくはかつてごくごく短期間だが、外国人に囲まれてオレンジ農園で働いたことがある。外国人と言っても西洋人ではなく東南アジアの人々だったので、言葉はほとんど通じなかった。トビー・マグワイアが演じる主人公のホーマーがリンゴ農園で働き出した時に、あの時のことを強く思い出した。

 

“映画のような人生”なんて言葉があるけれど、人生なんてすべて映画のようなものだよね。

 

ここしばらく、毎日毎日『八月の鯨』を観ながら夕食を食べている。

 

大きな理由は特にないけれど、音楽を流すのにちょっと飽きたので、というような曖昧なもの。そこに滑り込んできたのがたまたま『八月の鯨』だった。

 

大事件も起こらないし、スーパーヒーローも出てこないし、ゾンビも吸血鬼もサイコパスも出てこないけれど、何度観てもまったく飽きない。自分にとってはそれこそ人生の一部のような、もしかしたら肉体や精神の一部のような映画だなあと感じる。

 

サイダーハウス・ルール』の中では、ホーマーはシャーリーズ・セロンが演じるキャンディと一緒に映画を観るまで、映画といえば『キングコング』しか観たことがないと言っていた。何度も何度も観た『キングコング』、それでも楽しみで仕方がなくて、何度も何度も観たくなっちゃって、映画は大好きだと言っていた。

 

そういうのはよくわかる。ぼくはこれまで結構たくさんの映画を観てきたけれど、同じ映画を繰り返し観返していることのほうが圧倒的に多い。

 

好きって、たぶんそういうことだよなあって思った。

 

林檎と鯨と、キングコングの話。

 

 

 

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月白貉