ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

follow us in feedly

あなたの街にもあるかもしれない、黒い魚が建てた本当はコワい教会の話。

「1531年、エルパッハ近くの北海でひとりのメーアマンが捕らえられた。その男はローマ教会の司教のような姿をしていた。」

- ハインリッヒ・ハイネ -

 

Merman

 

妻と激しい喧嘩をした土曜日が明けて、ソファーで一夜を過ごした私が目を覚ましたのはもう正午をまわった頃の日曜日だった。家の中は北極あたりの深海のように異常なほど冷たく静まり返っていて、およそ人間の気配など感じられなかった。もちろん、体が芯まで冷え切っていた私自身も含めて。ソファーから起き上がると体の節々に錆び付いたボルトでも刺さっているかのような鈍い痛みが走ったが、洗面所で顔を洗って歯を磨いている間に、その無数のボルトはどこかに消え去っていた。もしかしたら体の外に消え去ったのではなく、体の中に埋もれてしまったのかもしれないが、永遠に痛みがないのであれば、それはどちらでも同じようなことだった。

 

キッチンに置かれた冷蔵庫の扉にピンク色のポストイットが貼られていて、「きのうはごめんなさい。買い物に出かけてきます。」という妻からの言葉が書かれていた。私はその書き置きを静かに扉から剥がし取り、しばらくの間「ごめんなさい。」という文字だけを何度も何度も読み返してから、再び扉に貼り付けた。

 

キッチンのテーブルの上には、ラップの掛かった白い丸皿が置かれていて、内側が小さな水滴で覆われて湿ったラップ越しに、黄身が半熟の目玉焼きとカリカリに炒めた斜め切りのソーセージが見えた。ラップが柔らかい黄身の表面にへばり付いていて、何か得体の知れない不快な生物のような光を放っていた。用意されていた朝食の周囲には、冷蔵庫の扉にあったようなポストイットは貼られてはいなかったが、それが私のために用意されたものだということは当然すぐに理解できた。なぜなら、私たちの娘は一週間前に交通事故で死んだからだった。そして娘は、半熟の黄身を嫌ったからだった。私は先ほどの「ごめんなさい。」の文字を読み返したのと同じくらいの間、その不気味に光る黄身の姿を見つめていた。そしてその後おもむろに皿からラップを捲り取ると、ラップに密着していた黄身が揺れ動き、中央が裂けて中から液体状の黄身が溢れ出した。一瞬だけそれはいつかどこかで見た誰かの血液のような気がしたが、その後すぐにそれが焼かれた卵の黄身だということを思い出した。黄身が半熟の目玉焼きとカリカリのソーセージは私の好物だったが、今この瞬間には朝食を摂る気にはなれなかった。

 

キッチンの流し台で蛇口からコップに注いだ冷たい水をゆっくりと喉に流し込んでいると、リビングに置かれたスマートフォンの着信音が響いた。妻からの電話であることを示すヘンリー・パーセルの楽曲だった。私は半分水の入ったままのコップを流し台に置き、足早にリビングに向かった。

 

「あっ、もしもし、まだ寝ていた?」

 

「いや、もう起きていたよ、おはよう。」

 

「おはよう、あたしいまシブサワ屋から帰る途中で、西教会の脇の池のところにいるんだけれど、あなた今すぐここまで来られるかしら?」

 

「今すぐに?どうかしたのかい?」

 

「いや・・・、どうかしたのかもしれないけれど・・・、あたし頭がおかしくなったのかもしれなくて、怖くて、だからあなたが来てくれたらと思って電話したの。きのうはごめんなさい。」

 

「ああ、それはもういいよ、おれも悪かったから。それより、なにがあったんだい?だいじょうぶなのかい?今からすぐにそこまで向かうけれど、15分もあれば行けると思うけれど、それまで待っていられる?」

 

「ごめんなさい、大丈夫、やっぱり来なくても大丈夫だと思う。これから家に帰るわね。」

 

「なにがあったんだい?心配だからそれだけでも教えてよ。」

 

「真っ黒いね・・・」

 

「真っ黒い?」

 

「うん、真っ黒いミサ装束を纏った司教みたいな男が西教会から出てきてね・・・」

 

「うん、それで?」

 

「それでね、私の前をずっと池に向かって歩いていたんだけれど、その男が池の所まで来た時にね、道路を逸れて、池に、水の中にそのまま歩いて入っていったの。それでね、腰くらいまで水に浸かったところで立ち止まってね、濁った水の中から両手で何かを引き上げているような仕草をはじめたから、あたし怖くなったんだけれど、木の陰からその様子をしばらく見ていたの。」

 

「うん。」

 

「そうしたらね、水の中から男が子供を抱き上げて・・・、それが・・・、それがね・・・、」

 

妻の声が次第に引き攣るような叫び声に変わり、スマートフォン越しの私の耳にまで涙の感触が伝わってきていた。私は妻にそこでじっとして待つようにとだけ少し声を荒げて叫んでからすぐに電話を切り、寝間着の上にダウンジャケットを羽織って家を飛び出した。

 

西教会の脇の池に面した道路沿いまで、一切止まることなく全速力で走り続ける私の肺は、乾いた毒の熱風を吹き出す奇妙な植物のような音を立てていた。このまま走り続ければ死ぬのかもしれないという、やや現実味を帯びた妄想が一瞬浮かんでから、ものすごい速さで遠ざかっていった。

 

池にたどり着くと、妻の姿はどこにもなかった。

 

池の中央付近からは、何か大きなものが沈んだ直後のような不自然な気泡が無数に浮かび上がっていた。

 

昔、子供の頃に祖父に聞いた話がある。

 

西教会の脇の池は暗くて深い。ずっと昔からあそこにあって、その底は人の及び得ない世界まで繋がっている。遥か昔に、あの池から外国の僧侶のような姿をした真っ黒い魚があがってきて、その魚は半身が人のようだった。そしてその魚は、池の脇に石の教会を建てて、そこで暮らしながら奇妙な神様を祀りはじめた。それは人々が知っている神様ではなく、怪しげな禍々しい姿をしたものだった。

 

「だからさ、あれは西教会なんて呼ばれてるが、キリスト教なんかとは全然関係ないんだよ。じいちゃんが小ちゃい頃からあるけど、もっとずっと昔からあるみたいだけれどさ、建物の中のことを誰も知らないんだからさ。十字架だって付いてないし、壁には気味の悪い彫り物がしてあるだろ。なんだかおっかないよ。」

 

池の水面を見ながら呆然と立ち尽くす私の手に握られたスマートフォンに、妻からの短いメールが届いた。

 

「あたし迷子になっちゃったみたい、ごめんなさい。あなたは、いまどこにいますか?」

 

 

 

動画小説空間の温度変化で、そこに何かがいることを知る。

短編小説10月31日のハロウィンに、私がひとりぽっちにならない理由。

 


月白貉