ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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赤マントを斬るには、ドラゴンスレイヤー包丁が必須日記

ぼくは幼い頃から映画が大好きで、今までいっぱい映画を観てきた。

 

映画の世界の話を、もしかしたら多くの人は、自分とは違う世界の話だと思って観ているかもしれないけれど、いやいや違うよ、ぼくは同じ世界だと思って観ている。映画で観たことが、自分の生活にずいぶん反映されてる。だから、日々が楽しいのさ。映画ってそういうものだと思う。

 

ずいぶん前にとりあえずとして購入した包丁がクソ切れない。言葉がお下品で失礼するが、クソである。その切れなさ具合は日に日にひどくなり、いまやただの棒と化した。潰してちぎる道具にしかなっていない。こりゃたまらん。そんなある日、路地裏の情報屋からこんな噂を耳にする。

 

「ほんの一瞬で、オンボロ包丁をドラゴンスレイヤーにする道具がありますぜ、だんな。」

 

赤マントを斬るには、ドラゴンスレイヤー包丁が必須日記

 

つづく。

 

ぼくは、いろんなことをぶっ壊して、その流れで旅をしてきた。ぶっ壊すことで、少なからず自分が変われると思っていた。でもね、やっぱり変われないのさ。変わったような気がしていたけれど、変わることなんか出来ない。そして、それでよいんだよねってことに、少し気がつくことになる。きょう、さっき、気がついた。

 

変わっちゃったら、自分はどこにゆくんだ。ぼくじゃなくなっちゃうじゃんか。変わる必要はない。何かを知ること、何かを学ぶこと、何かを考えること、そういう時間をきちんと持つこと。変わることのない自分と、じゃあどうやって生きてゆくのかと考える時間をきちんともつこと。「なにやってんだよ、バカか、おれ」っていう自分と、ずっと歩いてゆくすべをちゃんと考えることにする。あ〜、それって、たいへんだなぁ。

 

天狗巣病の桜を見かける。恐るべし天狗巣病。おそろしい。松かさ病もおそろしい。金魚の病気。

 

コックリさん。いつだったかな、中学だか高校の頃か、休みの日に外出していて夕方くらいに家に帰ると、ぼくの机の上に大きな模造紙がおいてあった。紙には、五十音のひらがなと、なんだかぐるぐると円形の模様が書いてあった。これ・・・、コックリさんの・・・。

 

どうやら妹が友だちとコックリさんをやって、中途半端に終わらせてぼくの机に放置したらしい。バカか。その時のことをいまでも覚えているのは、ずいぶんゾッとしたからだろう。

 

都市伝説と言われているものがある。ネットが普及する前は、というか昔は、もっともっとその現実味というか、リアル感があった。

 

ぼくが小学生の頃、「赤マント」という伝説があった。

 

ある日、授業の最中にトイレに行った生徒が戻ってきて、「赤マントがいる・・・」と騒ぎだした。トイレに赤マントが出たということで学校中がパニックに陥り、授業が中断したことがあった。いまでも覚えている。ああいうことはいまでも起こりうるのだろうか?

 

種田山頭火のすきな句がある。

 

分け入っても分け入っても青い山

 

高校生の頃、ソルトという苗字の老齢の現代国語の先生がいた。ぼくはその先生の授業が好きだった。どんな授業か忘れたが、山頭火をあつかったことがあって、授業の最後に彼はこう言ったのだ。「山頭火という人はだな、きみたち、そういう人物だったのだよ。」

 

先生はずいぶん年をめしていて、動きや喋りがおぼつかず、高校生なんて大抵みんなサルだから、先生をバカにしていて、授業をまともに聞いている生徒なんていなかった。でも、ぼくはちゃんと聞いていましたよ、先生。

 

そしていまでもなぜか鮮明にその景色を覚えています。

 

ありがとうございました。

 

そして、おやすみなさい。

 

 

 


月白貉