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ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

神社の裏に隠れている、ヌルヌルしたインド象の握る秘密日記。

日記

足を触った盲人は「柱のようです」と答えた。

 

尾を触った盲人は「綱のようです」と答えた。

 

鼻を触った盲人は「木の枝のようです」と答えた。

 

耳を触った盲人は「扇のようです」と答えた。

 

腹を触った盲人は「壁のようです」と答えた。

 

牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた。

 

それを聞いた王は答えた。

 

「あなた方は皆、正しい。あなた方の話が食い違っているのは、あなた方がゾウの異なる部分を触っているからです。ゾウは、あなた方の言う特徴を、全て備えているのです。」

 

神社の裏に隠れている、ヌルヌルしたインド象の握る秘密日記。

 

カラスの目には、ツバメはどんな風に映っているのだろう。それってとっても大切なことのような気がする。

 

ぼくは無礼な人が嫌いである。なんて言うとずいぶん偉そうではあるけれども、ほんとうに嫌いである。親しき仲にも礼儀あり。そういうことがわからない人だとわかった時点で、どんなに仲が良くなろうとも、さっぱりお付き合いをご遠慮願うことも過去けっこうあった。だからほんとうに真剣にお付き合いをしている人は、とっても少ないのです。

 

時々話をする近所の方にたまたま出会って、いろいろ話していると、いつもは話さないようなことを話してくれた。そして最後に、「じぶんの思うように、出来る限り好きなことをやればいい。」と、そう言ってくれた。

 

自分の進んでいる道が、ときどき間違っているんじゃないかと、すごく不安になることがある。ほんとうに不安になってくじけそうになることがあるのさ。もちろん、男の子だから、多少のことではくじけたりしないが、でも、きょうのその言葉で、ぼくは自分の歩みをとめることはないのだと、強く知ることになった。

 

危ういからこその強さがある。それは知っているし、自分もそこそこ強いはずだ。でも、ぼくはまだまだだと痛感した。

 

きょうの教訓、毎日毎日無駄に情報を貪っているよりも、情報を遮断していた方が、日々は素晴らしい。

 

実は達成していることでも、自分自身が気付いていないことって、山ほどある。いや気付いてはいるんだ。気付いてはいる。ただ達成したって言えるような段階じゃない気がして、なんだかよくわからんが許せないのだ。そんなことで終わりじゃないだろって、無駄に自分に厳しい部分がある。流すところはわきまえていてトコトン流せるのだが、肝は流せない質なのだなあ。

 

とある食堂のおかあさんから聞いた言葉が、ずっと頭の中をめぐっている。

 

「64年なんてあっという間だったわよ。」

 

18歳の時からの64年と言えば、82年、おそらく激動の82年間だったんじゃないだろうか。でもおかあさんの顔は、とても穏やかなのだ。ぼくは、そういうおかあさんやおとうさんに、よく出会う。なんだかんだで、みなさん、いい顔をされておられる。

 

ジョギングしていたら、スマートフォンが道に落ちていた。帰りの一本道ですれ違ったのは一組の観光客だけ。行きには落ちてはいなかった。どうしようかちょっと悩んだが、放っておいて車にでも踏みつぶされたら悲しいし、拾ってずいぶん先まで走って追いかけて、落としたかどうか聞いてみたら、やっぱり落としていた。よかったよかった。こんどは誰かに、その思いを返してほしい。

 

きょう、神社の裏側の階段を降りたら、なんだかすごいヌルヌルしていて、チャップリンのごとくすっころんで落っこちる。「ころんじまった〜」ってでかい声で叫んじゃって、通りかかったおばさんに怪しまれる。コケまみれ、雨水まみれの泥水まみれ。普段滅多に洗わないバックパックを洗うはめになる。

 

左手首ちょっとやっちまってるし・・・。

 

おやすみなさい。

 

 

 


月白貉