ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ラフレシアが放つ弾丸が、ホタルを撃ち殺す美しさをぼくは知らない日記。

子どもの頃、祖父に、池や沼での魚釣りに頻繁に連れて行かれた。

 

竿に糸と浮と針がついていて、練り餌や蚯蚓で日がな一日竿をたれてフナなんかを釣る。

 

釣りの最中に練り餌なんかを触ると手が臭くなる。その臭い手でお弁当として持参した握り飯を食べるのがすごく嫌だった。祖母が持たせてくれるお弁当の握り飯はすごく美味しいのだけれど、釣りの最中に食べるは嫌いだった。

 

握り飯を食べると、必ず思い出すのが、手の中に練り餌の臭い。

 

 

笑顔と声と、アワビと、冷たいビールの味。

 

大切なことは忘れがち。

 

いや、忘れているんじゃなくて、隠れているんだ。大切なことは、日々のもやもや漂う霧や塵や、あるいはいろんな煙に、隠れがちなのだ。ほんのちょっと前のことですら、隠れて見えなくなってしまう。

 

 

人間に目を向けることをやめたときに、もっとほんとうのことが見えてくるだろうなあ。

 

 

目が痒い。花粉かな、いまは何が飛んでいるんだろう。ラフレシアかな。

 

ラフレシアが放つ弾丸が、ホタルを撃ち殺す美しさをぼくは知らない日記。

 

玄関先にホタルがいるということはだね、夜にはホタルが舞う可能性もありんす。

 

吉原へトリップ。

 

 

映像作り出すと、なかなか妥協ができない。編集の段階で、だめな部分ばかりが気になり出す。何度も何度も、撮りなおしたくなる。でも結局、最初に撮ったものを超えることなんて、とうてい出来ない。だから撮りなおさない。写真もそうだけれど、一回性の美学が、確実にそこには存在する。自分の瞬発力と感覚に依存した、直感的な最初の一太刀が、大胆で奇抜でもっとも力強いものだってこと。やっぱりそこが最強なんだよなあって、いつも感じるの。

 

 

ごはんが炊けたよ、たちつてと。

 

よし、母ちゃんめしだ、めし。ドリフ大爆笑はじまっちゃうよ。はやくはやく〜。頭がボ〜ッとしているので、いろいろ妄想とか空想とか飛行中。水飲もう。

 

 

部屋の片隅にたぬきの置物を祀って賽銭をあげてみた。明日になったら賽銭増えるかなあ。

 

 

病は気からだ、かきくけこ。

 

 

コシアブラのことをバカの芽って言うらしい。

 

 

幼い頃に毎年家族で訪れた避暑地を思い出す。山と川で遊び疲れて、とぼとぼと宿まで帰る夕暮れの道。オレンジ色に染まった空間に響き渡るヒグラシの声。その声を耳にためながら、けだるい体を引きずる心地さが、いまでも体の奥底でぐるぐると漂っている。ぐるぐるぐると。

 

迷路からはいつまでたっても抜け出せないのが、世の常。

 

 

多くの誰か様へ。

 

花粉が飛び交い、目鼻からドラゴンのような火花が飛び散れども、化け物の息吹がそこかしこに感じられる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 

ぼくはといえば、飛んでも八分、歩いて十分、猫の頭は灰だらけな日々です。けれども、自分には厳しく、時にはあくまで自分にやさしく生きてはいますが、そのあたりはご想像と、ご空想におまかせいたします。

 

誰かに手紙を書くほど暇ではありませんが、誰かに手紙が書けないほど忙しくもありません。けっきょく、日々なんてものはそんな風な具合だと思っております。時計の針を気にせずに、ただ流れ行く何かを貪る、いまこの刹那です。

 

おやすみなさい。

 

そして、きょうのテーマソング。

 

 

 

 


月白貉