ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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USBメモリにピクミンを詰め込んで、冒険の旅に出るホーホー鳥日記。

久しぶりにビデオカメラをフル稼働させ、日がな一日編集作業をしている。その過程で、余計な技巧が作品をどんどん腐らせてゆくんだなあと、改めて感じるにいたる。

 

ぼくの制作スタイルは、その場の直感に重きを置いている。脚本はたいていは頭の中にしかない。

 

昔からメモはとらない質である。

 

風景と向き合って、目に焼き付けて、その記憶をはさみで切って、つなぎ合わせる。

 

たぶん「夢」に近いのだと思う。

 

その間にも広がりゆく世界の一瞬を、いかに自分の中に取り込めるかということに、おもしろさがある。意識せずに構築され続ける世界を、いかに意識してそこに構築するかということ。

 

 

「私の武器はたぶん知識に頼らない直観というものではないでしょうか。」と、谷川俊太郎が書いている。

 

ぼくの武器も同じ種類だなあと、風に吹かれながら思う。

 

きょうの風は、荒々しく熱を奪う。

 

 

足にこぶが出来たり、腕をまきストーブで火傷したり、熱々のみそ汁味見して下唇を大幅に火傷したり、いろんなところが傷だらけだけれども、やっちまったものは仕方がねえ。

 

なんとかなるさ。

 

 

数年前にたまたま目にした、見知らぬ作家のエッセイに書いてあった文章、星空を眺めながらの帰り道、ぼんやりと思い出した。

 

いま冒険しなかったら、きみたちはいつ冒険するんだね。

 

正確ではないけれど、だいたいそんな内容だった。

 

星がきれいだ。背後で鳥のようなものが鳴いている。ホーホー言っているからフクロウかもしれないが、暗闇から響く見知らぬ声は不気味である。けれど魅力的でもある。かすかな光が含まれているようにも感じる。

 

ほんとうの暗闇からは、何も聞こえては来ないだろう。

 

ホーホーとも、ニャーニャーとも、いつ冒険するんだね、とも。

 

 

浦島さん、ぼくはすでに吸血鬼になってしまっているのでしょうか。あるいはもしかしたら、想像するだに恐ろしい、もっともっとおぞましいものになり果ててしまっているのでしょうか。

 

ぼくにはよくわからないのです。

 

 

経験から言うと、突き当たりには何もないのだ。その途中が楽しいし、意味がある。

 

 

常識ってのは、自分の周囲の多くの人が言ったりやったりしていることの物まねじゃなくて、なにをどうすればいいのかという、瞬間的な判断力の問題だろうと思う。そしてもっというなら、何かへの思いやりだと思う。

 

 

ピクミンがいっぱい死んでいる。

 

USBメモリにピクミンを詰め込んで、冒険の旅に出るホーホー鳥日記。

 

携帯型のUSBメモリを洗濯機のおしゃれ着洗いで洗濯したら、iPhoneに変わるかもしれないから、明日試そう。

 

おやすみなさい。

 

 

 

ひとり暮らし (新潮文庫)

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月白貉