ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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明
明

血に濡れた千円札を握りしめる、偽物の守護天使の祈り日記。

誰かを信じるっていうのは、とても大切なことだけれど、とても困難なことだ。ほんとうに信じている人が、果たしてどれほどいるだろうか。

 

たぶん、ぼくには数えるほどしかいない気がする。

 

確かなことはわからない。

 

でも今ほんとうに信じている人は、両手で数えるほ、あるいは片手で、そして、あるいはひとつの指で。

 

 

風邪ひいてるから、はなつまっちゃう。ぼんやりしちゃう。たまには、よりかかりたいさ。

 

 

探し物は、いつだってみつからない。

 

 

そとから竹を切る音がしてゾッとする。竹切り狸だな。

 

 

ほんとうにほんとうに助けてほしいって思うこと、時々あるじゃん。でもそういう時に限って、ほんとうに助けてくれる人じゃなくて、偽物の守護天使が降臨して、クソみたいなことを恩着せがましく振りかけられて、逆にとんでもないダメージをくらうことになる。

 

血に濡れた千円札を握りしめる、偽物の守護天使の祈り日記。

 

 

ぼくにはほんとうの守護天使が何人かいる。

 

ほんとうに危機的な時にいつも、助けてくれる。

 

だからいまはまだまだ自分でいける時なんだな。

 

小学生の時に、通信簿の備考欄に書かれてたこと、いま思い出した。「べるくんは、ほんとうにぎりぎりにならないと本気を出しません。」はい、そうですよ。

 

 

昨日の夜、とんでもなくおそろしい夢を見ていた。

 

ずいぶん長い物語だった。一晩中のように感じてはいたが、夢の長さは起きている時間とは異なるのだ。夢の時間が現実であり、現実であると思っている時間が実は幻だという話がある。もし昨日の夢が現実なら、ぼくは逃げのびたであろうか。あの夢では、少なくとも日本の40パーセントくらいは、邪悪なものに汚染されていた。いま思い出しても、おそろしい出来事だった。あるいは夢ではなく、このあとの眠りの先にある現実。

 

しかし、ぼくは戦うのである。

 

 

ぬれちゃった千円札を乾かしていて思う。お札って紙切れだよなあ。こんなものに価値があるなんて、なんかバカみたい。

 

そこをぶっ壊したら、世界は変わるんだよなあ、きっと。

 

中学生の頃に、自由という言葉の定義を書かされて、なんだかひどい文章を書いた記憶がある。

 

だって自由なんてよくわからなかったもの。自由なんてものは、定義される言葉ではなく、それぞれがもっているあがなえない呪いのようなものだと、最近はそう思う。ぼくが言葉に出して誰かに言う「自由」と、ぼく自身に巣食う自由とはまったく別物なのだ。だからぼくはあくまでも自由なのだけれど、自由は不確かでバラバラでたいへんなのだ。だからこそ、そこがおもしろいので、ぼくは自由を甘んじて受け入れている。

 

自由ってなんだろう。

 

 

すこし頭が混乱する。忘れ去ってしまおうと思っていた光が、時々、見慣れた山の上に、月を装って浮かんでいることがある。

 

その光は魅惑的で、幻想的で、ぼくはその光を直視できずに、目を閉じてしまう。その光の輝きが、ぼくの周囲の空気や、あるいは腕や足をもぎ取るようにして吸い取ってしまいそうで、苦しくて見つめてはいられないのだ。

 

ほんとうは見つめていたいのだけれど、それが果たして正しいことなのかどうか、ぼくにはわからない。その光が絶対的な真実なのか、それともぼくの幻想の産物なのか、いまのぼくは見分ける術をもたない。

 

でもその光はいまでもぼくの頭上に、繰り返し突然に姿を現し、古の祈りのようにぼくを照らすのだ。

 

だから、少し頭が混乱する。

 

だから眠る。

 

おやすみなさい。

 

 

 


月白貉