ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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パラダイス・ロストとニューヨークには、ヤドクガエルの生息密集地がある日記。

朝早く起きて窓を開けると、枯れた笹の葉が世界一面に舞い散っている。

 

映像に残そうとおもって、ビデオカメラを手に取るが、やはりやめることにする。

 

そういう光景って、カメラにおさめることは出来ない。知ってる。あとでみかえしてみると、そこに何かは映っているのだが、それはぼくのみたものとは少し違っている。その少しの壁は透明でフワフワとしたものなのだけれど、そこを突き破るのはなかなか難しい。

 

窓のそとでは、枯れた笹の葉が世界一面に舞い散っている。

 

 

朝ごはんの支度をしていたら、インターネットのラジオからフランク・シナトラの歌が流れてきた。

 

ニューヨーク・ニューヨーク

 

歌詞の意味はよく知らないけれど、なんだか少し悲しくなった。なんでだろう。昔何か悲しいことがあった時に、その歌が流れていたんだろうか。もしかしたら、悲しくなったのは歌のせいじゃなく、きょうが雨降りだからかもしれない。

 

いずれにせよ、きょうはやることがたくさんあるんだ。

 

さてと、まずはヤドクガエルを69匹捕まえにいかなきゃ。

 

パラダイス・ロストとニューヨークには、ヤドクガエルの生息密集地がある日記。

 

道ばたで名も知らぬ芋虫みたいなものが、たくさんのアリに取り囲まれて殺されようとしていた。

 

しゃがんでじっと見ていたら、芋虫がその攻撃に必死で抵抗して、すごいスピードで逃げ惑っていた。その後どうなったのかはわからない。そんなに簡単に、あのたくさんのアリたちをふりきれるとは思えない。

 

しゃがんでその光景を見ていると、その攻防の周囲には、なんだかすっごく小さな赤いダニのようなものが無数にうごめいている。何をしているのかはわからない。アリと芋虫の攻防に付かず離れず、走り回っている。ぼくはしばらく道ばたにしゃがんで、その光景に目を奪われていた。

 

するとしばらくして、突然右手の甲に激痛が走った。目をやると、大きな甲虫のようなものが、ぼくの手の甲に噛み付いていた。びっくりして立ち上がり、その虫を必死で振り払うと、そこには元の世界が広がっていた。

 

ぼくはいったい何のために、今、ここで生きているのだろうか。

 

 

都会を離れて、見知らぬ土地で暮らし始めて、ずいぶんと時が経過した。

 

素晴らしい部分もたくさんある。けれども、やはりそうではない部分もたくさんある。どこにいても、そういうことって、じつは関係ないのかもしれない。

 

素晴らしい部分しかない世界なんて、そんな楽園のような世界なんて、もしかしたらあるのかもしれないけれど、ぼくはまだ知らない。それはおそらく、ぼく自身の問題も大きいのかもしれない。だけれど、ぼく自身だけの問題でもないのかもしれない。

 

でもね、ときどき部屋の窓から空を眺めていると、その何気ない景色とか、肌触りとか色とか匂いとか、いまこの瞬間は楽園なんじゃないかと、そう思うことがある。

 

一瞬の輝きを見逃さずに、継続してその光のようなものを感じ取ることが出来れば、どんな場所にいても、そこが楽園なんじゃないだろうか。

 

残念ながら、わりとそういうことには長けているのだ、残念ながら。

 

おやすみなさい。

 

 

 


月白貉