ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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箸の持ち方と、スプーンと素手とインドカレー。

ずっと前から気付いていたことなのだが、ぼくは箸の持ち方が若干間違っている。

 

まあ厳密に言えば、箸の持ち方が法律で決まっていて、規定の持ち方から逸脱していると罰金とか懲役とかになるわけではないから、正しいとか間違っているとかではなく、多くの人の箸の持ち方とは若干違った方法で、アイデンティティーな感じに箸を持って使っているという言い方が正しいかもしれない。

 

でも数日前の夕食時に、ふと相方に「その箸の持ち方でよく使えるよね。」という衝撃発言を獅子の咆哮のように浴びせられてから、気になって気になって仕方がなくなり、いまさらながら箸の持ち方を一般大衆のやり方に合わせることに、つまり迎合してみることにした。

 

ここで自分の箸の持ち方を写真やイラストで表現したりするとわかりやすいのだが、わざわざ台所から箸を持ってきて、それを持っている自分の手の写真を撮ったり、あるいはデッサンしたりするのは面倒くさいので、そういうことはしない。

 

ちなみにどんな持ち方をしているのかというと、ちょっと違うだけだと自分では認識している。両手で一本ずつ箸を握ってナイフとフォークみたいにして使っているわけではないし、親指と人差指しか使わないというようなトリッキーなものでもない。

 

芸能人に例えると、土田晃之さんが操る箸流派に似た持ち方だと思う。

 

簡潔に言うと、中指を挟んでいないのである。

 

まあそんなわけでここ数日、長らく連れ添ってきた箸の持ち方とはきっぱり縁を切って、新しい箸の持ち方と付き合いだしたのだが、やはり前箸のことがなかなか忘れられない。まだ数日だから、ふと思い出したりする。箸の持ち方も恋愛と同じである。もちろんそれでもなんとか過去を振り払い、新しい箸の持ち方との生活にも徐々に慣れつつある。

 

今日の朝食の際などは、何度も何度も、そして様々な角度で、新しく生まれ変わった我が箸の持ち方を相方に見せつけてみたが、「ちゃんと持ててるね。」ということである。しかし、前の箸の持ち方だって、個性があっていいじゃないかという思いは、なかなか捨てきれない。

 

だから、ちょっと敗北感もある。無理に多くの誰かと同じように生きなくたっていいじゃないかと。

 

というわけで、箸の持ち方事変的な出来事から受けた教訓は、「人はいつからだってどこからだって本当に変わろうと思えば変われるけれど、あえて変わらないという頑固一徹な生き方だってある。」というものである。

 

ちなみに、寿司やおにぎりを箸で食べても美味しくないのと同じで、インドカレーは、箸よりもスプーンよりも、素手で食べる方が圧倒的に美味しい。

 

インドカレー屋のテレビ

 

だから、きょうの夕飯は、正しい箸の持ち方などとは無縁の世界に存在する、インドカレーが食べたい。

 

第3世界ショップ カレーの壺マイルド 220g

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インドカレー屋のBGM ライス抜き

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月白貉