ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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世界の何処かで始まりつつある、本当の恐い話。

目から大玉の涙を流してヒャクヒャクと咽び泣きながら、娘のサエが家の中に駆け込んできた。

 

「ど、どうしたのっ、ほら、こっち来なさい、いったいどうしたの?」

 

台所のテーブルで椅子に座って珈琲を飲んでいた私の脇腹めがけて飛び込んできたサエは、私のシャツを両手でギュッと握りしめてから顔を埋めた。サエの生温かい涙が、シャツを通過して私の脇腹の窪みにジワジワと溜まってゆき、小さな水たまりをつくりあげた。

 

「どうしたの・・・、帰り道で何かあったの・・・?」

 

サエがしゃくり上げながらシャツでゴシゴシと顔を拭くようにして首を何度も何度も上下に揺らす。そしてまた大声を上げて泣き出してしまった。

 

「どうしたの、ぼくに言ってごらん、もう大丈夫だから、何も心配はないから・・・」

 

「外に、ゴキブリがいて、大きいのがいて、チーチが食べられちゃった・・・」

 

「えっ!」

 

「チーチがあぁ〜っ!!!!!」

 

一週間前から家の近所を子猫が彷徨くようになっていて、時々家の庭をにゃあにゃあ言いながら歩きまわるようになった。特に何か食べ物をあげていたわけではないのだが、ずいぶんと人懐っこい子猫で、私やサエが近付くとこちらに寄ってきて、足にコシコシと体を擦り付けたり、足元でコテンコテンと寝転がったりして、ずいぶんと可愛らしい子猫だった。体の上半分が黒で下が白、そして四足の先だけが長靴でも履いたように黒くなっている不思議な模様をしていた。その猫が現れてから、サエはずっとウチで飼おうウチで飼おうと言ったが、残念なことに妻が重度の猫アレルギーだったこともあって、サエの願いを聞き入れることは出来なかった。もちろんしっかりウチで面倒が見られないのであれば、適当に食べ物をあげるというのはあまりよろしくないだろうと考えていた私はサエに、その子猫とふれあうことはもちろんいいけれども、何か食べ物をあげたりしてはいけないよと、言い聞かせていた。サエはそのことをきちんと理解したようで、でもやはり何かその猫とのつながりを持ちたかったようで、「名前をつけてもいい?」と言って、その猫にチーチという名前をつけた。

 

「サエ・・・、それはいったいどういうこと・・・?」

 

私がそう聞き返してもサエは応えることなくしばらくの間大声で泣き叫んでいたのだが、私が何も言わずにサエの背中をしばらく撫でていると、ようやく少し落ち着いてきたようで、私の脇腹から顔を上げてこちらを見上げた。

 

「チーチが・・・」

 

「なにか怖いものを見たんだね。」

 

サエは無言のまま首を何度も何度も縦にふる。

 

「どこで見たの?」

 

「あの、ラーメン屋さんの横のとこ・・・」

 

「そっか、じゃあねえ、いまからぼくが見てくるから、ママを今呼ぶから、サエはここで待っていられるかな?それとも、ぼくと一緒に見に行く?」

 

サエは、顔をグシャグシャに歪めて、今度は首を何度も何度も横にふった。あまりに首をふりすぎるので、首が一回転でもしたら困ると思った私はすぐにサエを腰に抱きしめて、「だいじょうぶ、だいじょうぶ、」と呪文のように唱えた。

 

私はすぐに、二階の寝室で洗濯物をたたんでいた妻のモミに声をかけて事情を説明し、サエが言っていることの状況がよくわからないし、サエを安心させたいからちょっと様子を見てくるよと伝えると、玄関に置かれたビーチサンダルを履いて家を出た。

 

知り合いの沖縄県人が昔、「沖縄のゴキブリは寝ている人間に噛みつくんだよ、あれはおそらくは、どう考えても、人間までをも食料の対象に考えているんだろうと思うよ。」と言っていたことを思い出した。噛まれた場所は異様に腫れあがってひどい激痛が何日も続くとも言っていた。ゴキブリが毒を持っているという話は聞かないが、もしかしたら何かの具合で生まれてきた未知の、新種のモノが存在していて、どこかで着々と増えだしているんじゃないだろうかと、その知人は苦笑いを浮かべながら話していた。そんな話もありつつ、今この状況下で、現実的な話として、ゴキブリが猫を食べるなどということはまずありえないだろうと私は思っていた。しかしサエはもう小学二年生だし、あるはずもないことであんなに泣き叫んだりはしないだろう。事実は小説よりも奇なりという言葉もある。人は常識という魔術にあまりにも侵されすぎてしまっているため、時として現実に起きていることから目を背けてしまう。私たちが理解していることは、この世界のほんのわずかなことにしか過ぎないということを、人々はあえてどこかの暗がりに押し込んで、あるいは遥か彼方に追いやって、知らないふりをして生きている。

 

世界の何処かで始まりつつある、本当の恐い話。

 

それはおそらくは、人間がかつて知っていた古の時代の恐怖ということとなにか、関係があるのかもしれない。

 

そんなことを思いながら、薄曇りの道をスタスタと足早に歩いていると、サエの言っていたラーメン屋が目に入ってきた。そこは私も時々家族で訪れる店で、際立って味が優れているというわけでもなかったが、昔ながらの素朴なラーメンやチャーハンを真面目に出してくれる店で、値段もずいぶんと安く、何よりも店の大将の仕事への立ち姿のようなものがとてもよく伺え知れる店だったので、私はずいぶんその店のことが気に入っていた。

 

遠目に、大将が店先で何か箒と塵取りのようなもので掃除をしているのが目に入った。私が店に向かって歩いてゆく姿に気付いた大将が、箒を持った右手を高々と上げて挨拶を投げてくれる。

 

「よう、どうもっ!」

 

大将の横に置いてある半透明のゴミ袋の中に、なにか小動物のようなものが入っていて、明らかにそれが血にまみれている。私は挨拶をするのも忘れてそのことを口に出す。

 

「なにか、あったんですか・・・?」

 

「ったくよう、そうなんだよ、人の店の脇でよお・・・、胸糞が悪いったらねえよ、猫が殺されてたんだよ、なんだか、車ででもはねちまったのかなんだか知らねえけどさ、ったくもう・・・、可哀想に・・・、ほんとひどいもんだよ・・・」

 

確かにサエの言う通り、つい数十分前にここで何かが起こり、それが原因で猫がここで死んだようだった。私はその瞬間、中を確かめなくてはいけないという激しい衝動に駆られて、サエの話の内容を部分的に包み隠しながら、大将に理由を話すことにした。娘のサエが、どうやら猫が殺される瞬間を目撃したらしくて家に泣きながら帰ってきたこと、その猫がウチの庭にもよく遊びに来る猫かもしれないということ、そしてそれを確かめるために今私がここに足を運んだこと。

 

「なんだい・・・、そうだったのかい・・・、おう、そいじゃあちょっと見てみなよ、だけどずいぶんひどい有様だからなあ・・・、まあでも確認しないといけねえなあ、ちょっと見てみるか。」

 

「どうもすいません・・・」

 

「いやいや、別におれはいいんだけどよ、ただ可哀想でよ・・・。」

 

私と大将がゴミ袋の中を覗くと、確かにそれは白と黒の色を持つ子猫だった。しかし、チーチではなかった。チーチの特徴である四足の長靴を、その子猫は履いてはいなかった。それで少しは安心したものの、その思いがすぐに消し飛んでしまうくらいに無残な姿をしていた。車に轢かれたような傷跡ではなく、おそらくは何かに噛みちぎられているような印象を受けた。そして首がまるまるなくなっていた。けれどこの周辺に猫を噛みちぎるような動物は、私の知る限りではいない。例えば野犬や大型の猛禽類であれば子猫くらいであれば噛みちぎることもあるかもしれない。しかし、こんな都内の住宅街に、そんな動物がいるという話は聞いたことがなかった。いてもせいぜいは大型のネズミか、あるいは狸といったようなものが関の山だったが、ネズミや狸は子猫を襲ったりはしないだろうと、私には思われた。

 

サエは、ここで一体何を見たのだろうか。

 

私は大将に礼を言ってから、踵を返すようにしてその場を離れて、自宅へと引き返した。

 

家に帰ると、台所のテーブルに真っ赤な目をして口をへの字に曲げたサエが座っていて、オレンジジュースの入ったグラスを両の手でしっかりと握ってこちらをじっと見つめている。

 

「ただいま。」

 

「おかえりなさい・・・」

 

私はサエの頭をそっと撫でてから、隣の椅子を引き出して腰を下ろす。

 

「サエ、いまねえ、ラーメン屋さんの横まで行って確かめてきたけれど、チーチじゃなかったよ。」

 

「チーチは・・・?」

 

「チーチはまた、ウチに来るんじゃないかなあ、たぶん。」

 

「でも・・・、猫が・・・」

 

「そうだねえ、怖いものを見たねえ。」

 

「あれがウチに来たら・・・、チーチが食べられちゃうでしょっ!」

 

「・・・、サエ、何が猫をあんな風にしたの?」

 

「・・・、ゴキブリ・・・、大きいやつ・・・」

 

「そっか・・・、どのくらい大きかったの?」

 

「えと・・・、えと・・・、イヌくらい。」

 

「イヌか・・・、イヌ・・・、サトシくんの家のスムースくらい大きいかな・・・?」

 

サエはその質問に対して、しばらく明後日の方向を向いて目玉をキョロキョロと動かして何か考えているようだったが、私の方に向きなおると小さく何度か頷いた。

 

「そうか・・・、そりゃあずいぶん大きいなあ・・・」

 

その時外の庭の方から、にゃあにゃあと鳴くチーチらしき声が聞こえてきた。サエは跳びはねるようにして椅子から腰を上げて、庭に面した居間の方へ駆けて行った。後を追う私の目に映ったのは、庭の端でこちらを見つめるチーチの姿だった。

 

サエがこちらに、またクシャクシャになって今にも泣き出しそうな顔を向けて「中に入れないと・・・、チーチが食べられちゃうでしょ・・・」と私に訴えた。私はサエに「ちょっと待っててね。」と言って、再び二階に上がってモミに事情を説明した。彼女は思いの外すんなりと私の提案をのんでくれて、その日からチーチが我が家の一員として一緒に暮らすことになった。

 

数日後、私がひとりで近所のスーパーマーケットに買物にゆくと、精肉コーナーの隅で見知らぬ老婆が二人、買い物カートにより掛かるようにして、何か神妙な顔をしてヒソヒソと小声で話し込んでいた。何気なくその話に耳を寄せていた私は、半ば吐き気に似たような、胸の中にどす黒い液体がジトジトと流れ込んでくるような気分に襲われた。

 

その話の断片で片方の老婆が、近所の野良猫が大きな虫に喰われているのを見たと、確かにそう言っていたからだった。それを聞いていたもう片方の老婆は、その話に対して笑い飛ばすというようなことはなく、さらには驚くような素振りも見せずに、「やっぱりねえ・・・」というような言葉を口にしていた。

 

多くの人は、自分の知りうる世界だけが現実だと言う。海のどこかに住むという船をも飲み込むタコやイカ、奥深い森に隠れ住んでいる巨大な猿のような生き物、そしてもしかしたら都市部の下水道に巣食う異形の昆虫たち、そんなものはすべて誰かの妄想か戯れ言だと、きちんとその話を聞きもせずに、端から否定してしまって信じることをしない。

 

けれどもしかしたら、そういったモノたちは確実にこの世界に存在していて、徐々にではあるが、人間の居場所を脅かしだしているのかもしれない。かつての太古のままの、人間が根源的で圧倒的な恐怖を知っていた時代と同じ世界の色に、この場所を戻しつつあるのかもしれない。

 

スーパーマーケットにいた老婆のひとりが、私の去り際に不可解な言葉をボソリと吐き出していた。

 

「また始まるんだろうか・・・あれが・・・、あれはまた、昔みたいにはじまるんだろうか。どこかでヤミゴラが裂けだしたんだよ、きっとねえ・・・。」

 

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月白貉