ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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夕暮れ時の生き物採集と、トンネルの中にいた何かの話。

ぼくの家の近所には、地元ではケムリガワと呼ばれる小川が流れている。

 

いちど、ぼくがまだ若い頃に、その名前の由来を祖父に聞いてみたことがあったが、まったく知らないと言っていた。昔からそう呼ばれているが、私もよくわからないと、そう言っていた。

 

その川がどこを水源として流れてきているのかはよく知らなかったが、話によればぼくの家から少し離れた場所にあるこの地域の鎮守になっている古びた神社の裏の、奥の院のあたりの森から湧き出ていると聞いたことがあった。そしてその緩やかなケムリガワの流れは、これまた近所にあるヒノイケと呼ばれる、とても綺麗な水をたたえる池へと流れ込んでいた。

 

確か大学の頃だったと記憶しているが、その小川と池の名前、煙と火という音を持つ名前に興味を持ったぼくは、地元の図書館で半日かけて様々な文献に目を通し、その名前の由来をたどってみようと試みたことがあったのだが、結局、収穫はゼロだった。

 

これは、ぼくが小学校の時分に、そのケムリガワで経験した不可思議な出来事の話である。

 

ぼくの家の近所のあたりのケムリガワの川幅は非常に狭く、小学生でも本気を出せば飛び越せるか飛び越せないか程度のものだった。そして小川の所々には、道路から小川をはさんでその向こうの畑への渡しの道が作られていて、その道の部分だけは、小川に大きなコンクリート製のドカンが通され、小さな暗渠というかトンネルのようなものになっていた。

 

小川の水は透明度の高いとても綺麗なもので、静かな流れに揺れる水草の瑞々しい姿も相俟って、いつの季節も非常に目に美しく映った。ただその小川の両端には鬱蒼とした背の高い草が生えていたので、夕暮れ時や夜など、陽の加減や闇によって彩られたその姿は、なにか不気味な側面を見せることもあった。

 

「じゃあ、帰ったらムースの家の近くのカエルトンネルのとこなっ!」

 

「わかった、おれすぐだから、もう先にとっちゃうかもよ。」

 

「うん、いいよ、おれもチャリですぐ行くよ、そいじゃあね。」

 

バイバ〜イ。」

 

その頃の一番の楽しみはケムリガワでの生き物採集で、大抵はクラスで一番仲のよかったコイチャンと一緒だった。コイチャンの家は他の生徒に比べるとずいぶん裕福な家庭で、さらにはスポーツも勉強も、いつもクラスで一番みたいなイメージの男の子だった。けれどなぜか他の生徒からはずいぶん毛嫌いされていて、いじめられてこそいなかったが、ぼく以外にほとんど友だちらしきものはいなかった。だからぼくがコイチャンの家に遊びに行くと、コイチャンの母親はぼくにずいぶんと優しくしてくれた。

 

ぼくから見たコイチャンは、基本的には誰にでも公平だったし、機知にも富んでいたし、だからといってそういう自分の能力みたいなものや、あるいは家の裕福さなんかを変に自慢するようなこともなかった。そういうコイチャンの大人びた部分が、ぼくは好きだったのかもしれない。

 

カエルトンネルというのは、ぼくとコイチャンが小川の渡しのドカン部分に勝手に付けている名前で、ぼくの家の近所にある三つのドカンはそれぞれカエル、ヘビ、ザリガニという名前を冠して呼んでいた。そのドカンのあたりに多く生息しているものを、という子供ながらのコンセプトではあったのだが、蛙やザリガニはまあいいとしても、ヘビトンネルに限って言えば、一度そこで大きな蛇を見たからというだけの理由だった。

 

「きょうあんまりザリガニいないな・・・、んだよ〜、こんなによっちゃんイカ持ってきたのになあ。もいっかいカエルトンネルの方いってみよっか!」

 

「そうしよっか。」

 

その日もそうやって、夕暮れ時と夜のギリギリのピンク色の世界になるまで、二人で必死になって蛙やザリガニや、あるいは種類のよくわからない小魚なんかを捕まえていた。

 

あともう少しのところまで真っ黒な夜が近付いてきた頃、最後にもう一度だけと思って、カエルトンネルの中に顔を突っ込んで奥を覗き込んだぼくの目に映ったのは、水面から半分顔を出した、巨大なオタマジャクシみたいなふたつの黒い影だった。薄暗くてよく見えず、最初は大きなウシガエルかも知れないと思って、興奮して右手のタモ網の柄を握りしめたが、次の瞬間ザッと両腕に鳥肌が立った。

 

その黒い影の大きさは、ひとつはバレーボールを少し小さくしたくらい、もうひとつはそれに比べるとずいぶん小さくて、ソフトボールぐらいの大きさだった。そしてその顔の正面には、はっきりとこちらを見つめるそれぞれ二つの赤黒い目が付いていて、よくよくみているとカエルのそれとはまったく違っていた。そして大きい方の影には目の下に口のような穴が開いていて、水中に半分沈んだその穴が、なにか言葉でも喋っているようにカプカプと歪に開いたり閉じたりしている。ぼくはしばらくトンネルを覗き込んだ体勢のまま、じっと動かずにその二つの影を見つめていたが、ある瞬間に急激に夜の闇が押し迫ってきて、それと同時にバシャッという水音を立てて、その二つの影が水の中へ消えてしまった。

 

その時ぼくの両耳の奥で、初めて体験するような激しい金属音のような耳鳴りが響いて、ぼくは「うわっ!!!」と声を上げながら、トンネルの中から顔を出して立ち上がり、タモ網を投げ捨てて両手で耳を押さえてしまった。

 

ヘビトンネルの方からこっちに駆け寄ってきたコイチャンが、「どうしたのっ!?」と叫んだ。

 

「なんか耳の中がキーンってなっただけ・・・、大丈夫だよ。」

 

「そっか、もう暗くなったから、おれ帰るよっ!カエルとかどうする?ムース半分持って帰る?」

 

「いや、ウチはあんまりいっぱい持って帰るとお母さんに怒られるから、あのメダカだけ持って帰る。あとコイチャンにあげるよ。」

 

「そっか、わかった、じゃあまた明日、バイバイっ!」

 

バイバイ。」

 

そう言って、自転車で遠ざかってゆくコイチャンをしばらく目で追ってから、ぼくはすぐ近くの自分の家まで、メダカの数匹入ったバケツを手に下げて、タモ網を握りしめて、トボトボと歩き出した。

 

家の玄関に到着するまでの五分ほどの間、徐々に小さくなりながらもずっとキンキンと響いていた耳鳴りだったが、家の中に入った瞬間、嘘のようにピタリと止んでしまった。しかし、そのおかしな金属音のなくなった耳の中に、何か異物感のようなものを感じたぼくは、もしかしたら虫でも入ったのかもしれないという小さな不安を覚えはじめていた。

 

「ただいま。」

 

「あっ、おかえり、今日はなにとってきたの?」

 

「メダカ。」

 

「あら、きょうはずいぶん大人しい収獲だったんだ。」

 

「だってお母さん、いっぱいとってくると怒るでしょ、だから他のはコイチャンにあげた。」

 

「いっぱいってさあ、この間はカエル三十二匹もいたじゃないの・・・、あんなにたくさん飼えないでしょ・・・。」

 

「ねえお母さん、耳に、右耳の中に虫が入ったみたいなんだよ、ちょっと見て。」

 

「えっ、虫が?右耳?ちょっと見せてみて。」

 

母はぼくの顔を横に傾かせて、右耳の耳たぶを引っ張りながら穴の中を覗き込んでいる。

 

「う〜ん、虫なんか入ってないと思うけど、なんかゴロゴロするの?」

 

「うん、なんかさっきキーンってなって、それがなくなったら、なんかが入ってるような気がしたけど、よくわかんないけど、入ってない?」

 

「たぶん入ってないよ、耳鳴りしちゃったんだ、だからその後の違和感が残ってるんじゃないのかな、大丈夫だと思うよ。」

 

「うん、わかった。」

 

ぼくはそう言って言葉では納得しつつも、なにか頭の中にモヤモヤとしたものを抱え続けていたが、居間に置いてある水槽にバケツのメダカを移してから自分の部屋に戻った。

 

その後、母と二人で夕食を済ませて居間でテレビを観ていると、また右耳の奥に違和感のようなものを感じ始めた。今度は何かくすぐったいというか、むず痒い気がして仕方がない。ぼくは台所でこちらに背を向けて洗い物をしている母に向かって、その耳のことを再び訴えた。

 

「おかあさん、やっぱり右耳がムズムズする。」

 

「そっかあ、じゃあねえ、あとでまた見てあげるから、先にお風呂入っちゃって、沸かしてあるから、それで、寝間着に着替えなさい。そしたら、今度はしっかり見てあげるから。」

 

その時のぼくは、大好きなテレビのアニメよりも耳のことの方が気になって仕方がなく、母の言葉を聞き終えるやいなや飛び上がるようにして風呂場に駆けて行った。

 

風呂場に入ってすぐに、シャワーの蛇口を捻って頭からお湯を浴びていると、再び今度は右耳だけにキーンという耳鳴りの音が響き渡った。ぼくが慌ててシャワーをとめて右耳に軽く手を添えると、何か耳の中からヌルヌルとした塊のようなものが飛び出すような感触があり、それが耳に添えた手にあたって風呂場の床に落ちたような気がした。ハッと思ったぼくがすぐに床の何かが落ちた辺りに目を向けると、それはどう見ても小さなオタマジャクシだった。それもカエルになりかけの、真っ黒い体に小さな足と手をもつ、けれど大きな尻尾がまだウネウネと動いている、あの成長途中のオタマジャクシが、薄っすらと濡れた風呂場の床で、何か平泳ぎでもするかのようにして、排水口の方に向けて藻掻きながら這っていっている。そしてぼくがあっけにとられてその光景を見つめている間に、排水口の穴に吸い込まれて、消えてしまった。

 

夕暮れ時の生き物採集と、トンネルの中にいた何かの話。

 

ふと気が付くと、耳鳴りも、耳の中の異物感もすっかり消えていた。

 

その瞬間、耳はすっきりしているはずなのだが、ぼくは別の意味でずいぶん気持ちが悪くなってしまって、シャワーを使って右耳の中にバシャバシャとお湯を流し込み、体も洗わずに湯船の中に飛び込んでから、顔の上半分、息が出来るように鼻までを湯船の上に出して体育座りのような格好で身を固まらせた。しばらくして、湯に浸かりながらもう一度右耳の辺りを手で触ってみると、何やら右耳の上のあたりの髪の毛が不自然にもっさりと抜けているような感じがして、その辺りを手で触って、それを掴んで見てみるとたしかにそれは、わずかなものでこそあったが、抜け落ちた自分の髪の毛の小さな束だった。ぼくはよく意味がわからないまま湯船を出ると、その自分の髪の毛を排水口に打ち捨てて、もう一度念入りに全身をシャワーのお湯で流してから、風呂を出た。

 

風呂からあがって居間に行くと、母が縫い物をしていた。

 

「よし、あがったか!じゃあ、ここおいで、耳見てあげるから。」

 

「もう大丈夫、もう見なくても大丈夫・・・。」

 

「あら、なおったの?ムズムズするのは、もう大丈夫なの?」

 

「うん・・・、もう出た。お風呂で出て行った。」

 

「えっ!やっぱり虫が入ってたの?」

 

「虫じゃない・・・。」

 

「えっ、じゃあなにが出て行ったの?」

 

「わかんない・・・。」

 

その時、静まり返った家の中には、外から、おそらくはケムリガワの方から、何匹かのカエルの鳴き声だけが、空中に煙が漂うみたいにして、怪しく響いていた。

 

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月白貉