憑物筋狩り - キツネにならきっとわかる憑物の話 -〚 第柒話 〛
前回までに見てきたように、憑物筋というものは単に一括りにいえるものではなく、多数地帯と稀少地帯におけるその性格には大いなる違いがあった。
つまり多数地帯における憑物筋の多くが皆ごく普通の家にすぎないことに対して、稀少地帯のそれは明らかに巫女や占者や行者の類であった。
ただ多数地帯での、例えば狐持ちといわれるものが決して呪術者のようなものではなく、新参者の成功者に対する妬みの生み出した妄想の産物だったとしても、何かその背景には狐というものに対する信仰、つまり憑物というものに対する信仰が因子として存在するはずだと考えられる。そこにいかなる社会的な背景があったにせよ、憑物という思想自体が存在しなければ、憑物筋というものも発生してこないからである。ではその憑物という思想はどのように生じてきたのか。またそこから派生した憑物筋というものは、どのように生じてきたのか。
ここで時代を遡って、多数地帯における憑物筋にまつわる話をみてみると、『柴芝園漫筆』には、出雲の広瀬藩において、領主が狐蠱(狐持ち)を恐れるあまり、自らの命令で藩内の狐蠱をすべて集めて焼き打ちにしたため、広瀬藩内には狐蠱がいなくなった、という話が載っている。これは地元広瀬においても「焼打田」という地名の由来として話が残っているという。
このような例は土佐にもみられ、『土佐海』には、戦国時代に長宗我部の命により領内の犬神筋を選別して死刑に処し、その家を絶滅させたという話があるし、阿波では、『阿波藩民政資料』に収められている、守護代三好式部少輔宛の常連執達状に、早く犬神を使う輩を捜し出して罪科に処すべしと書かれている。
この時代、流通経済はさほど発達していなかったため、旧体制の中から急に財を蓄えて秩序を破るようなものはまだ現れてこなかったはずである。つまり今日の多数地帯でみられるような、周囲の妬み嫉みから生み出された狐持ちや犬神筋の家は成立していないはずである。となると、出雲や土佐や阿波で恐れられていた狐持ちや犬神筋は、今日のものとはまったく違うものだということになる。
そしてこれは、今日の希少地帯においてみられる憑物筋に類するものなのである。
次回へ続く。
月白貉