ありふれた三幕構成の物語
第一幕『昼』
季節がひとまわり。
久しぶりにこの場所に来てみる。風が気持ちよい。ずいぶん前にここに来た時にも、風が気持ちよいと、そう言ったことを思い出す。そして風が気持ちよい時には、いろんなことがうまくいくはずだけれど、果たして。
一年が過ぎて、何かが変わったのだろうかと、山と海と空を眺めてみるが、変わったような気もするし、なにも変わりはしないような気もする。立ち止まって遠くをぼんやりと眺めていると、時間はどこかへ消えてゆく。時間を背負わぬぼくの背中を、太陽が焼き。時間を持たぬぼくの両手を、風が凍らせる。背中が焼け焦げて灰になり、両手が凍りついて砕けても、いまはただぼんやりとしていたいのだ。
そんな風にしてふと気がついた、いまのぼくには、はじめから時間なんてなかったんだった。ずいぶん前に、見知らぬ駅のホームに、わざと置き忘れてきたんだった。いつか、「忘れ物が届いていますよ。」と、駅から電話がかかってきても、嘘をつこう。「それはぼくの忘れ物ではありませんよ、人違いじゃないですか?」と。
目の前に見知らぬ道が続いている。きょうはじめて見つけた道が続いている。さて、いまからこの道を、歩き出そうじゃないか。
第二幕『夜』
ぼくのこの人生は、もしかしたら、いまのぼくの意識の中では、最終的に何かにたどり着くことが終わりではない気がする。
哲学や宗教の知識は皆無に等しいので、小難しいことは言えない。
けれど、たぶん一生を終えても、それが長くても、明日死んでも、なにかの途中段階だと、真剣に思うのだ。
いまのぼくの歩みはとてもとても遅いが、その歩みのひと踏みは、地を揺るがすがごとく確実であるとは、勝手に思っている。
幼き頃の記憶が、やけに欲にまみれていたことを、いまでも鮮明に覚えている。その記憶が、はたしていま生きている自分の記憶なのかは、よくわからない。けれども、いま現在の自分も少なからず欲にまみれてはいる。幼き頃の記憶に勝るとも劣らず、その核はいまでも十二分に抱えている。その欲を誰かに見せまいとして、必死でこらえている。見るひとが見れば、その欲深さは、火を見るよりも、遠く太陽を見るよりも、明らかであろうことも知っている。隠し通せることは少ないが、その逆も、である。
硬貨にはなぜ裏と表があるのだろうか。どちらか一方は、何もなければいいではないか。裏には、もしくは表には何もない潔さを真に持ち得るものは、存在し得ぬものだというサインなのかもしれない。さまようくだらない想いを、時々、解き放ちたくなるのが、悪い癖である。
第三幕『虚無』
昼と夜しか存在しえない世界ほど、つまらないものはないだろう。
月白貉