ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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乗らなかったロープウェイと、登らなかった山の話。

それはもう、三十年ほど前の話になるだろうか。

 

子供の頃というのは、日常的な生活の中で不可思議なものを見たり、奇妙な気配を感じたりといったことがしばしばあるのは、誰しも同じだと思う。

 

その理由には様々あるだろうが、大人に比べて感覚が研ぎ澄まされているのかもしれないし、既存の余計な知識には左右されずに世界を見ているのかもしれないし、子供の時だけに持ちえる何らかの能力が存在するのかもしれないし、あるいは、実はそんなものは見たり感じたりしてはいないのだけれど、成長段階での様々な情報や記憶が、例えばテレビや映画や、もしくは想像や妄想なんかの情景が自分の過去の体験とごちゃ混ぜになってしまい、後に形成された、本当はありもしなかった偽物の記憶として、子供の頃の体験や景色が歪に変形し、奇妙に彩られてしまっている結果なのかもしれない。

 

ぼくのあの日のことが、そのどれにあたるのかは、正直いまでもよくわからない。

 

当時小学生だったぼくの実家は両親共働きで食料品店を経営していた。だから小さい頃からぼくの世話をしてくれていたのは、ほとんどが祖父と祖母だった。

 

ある夏休みの後半の事だったと記憶している。店のことにかかりきりでほとんど休みのなかった両親に代わって、祖父が山にハイキングに連れて行ってくれることになった。

 

祖父は若い頃から本格的な登山を愛好していたそうで、ずいぶんと年をとったその頃でも、大きな登山用のリュックを背負って、いわゆる昭和の時代の山男のような出で立ちをして、さっそうと家を飛び出してゆく姿を、よく見かけたものだった。

 

その日は早朝から気温もぐんと高くカラッカラに晴れていて、見渡す世界の端っこの方に、青黒い巨大な入道雲がいくつもあぐらをかいてこちらを睨みつける、夏の象徴のような日だった。

 

ぼくは自分の小さな水色のリュックサックを背負って、祖父はいつもよりも小さめの真っ赤なリュックサックを背負って、家を出た。ぼくのリュックには、祖母の握ってくれた拳程の大きさの、ウメとシャケとオカカの入ったおにぎりが三つと、砂糖入りの甘い麦茶の詰まった水筒と、大きめのタオルが二つと、あとは明治かどこかのチョコレートと、缶に入ったドロップキャンディーが入っていた。

 

地元の小さな駅から二両編成の電車に乗って二時間ほど、他県との境に連なる山脈の入り口に、山頂に古い神社を祀った山があった。その山は昔の修験道霊場で、もっと昔には何か自然崇拝の為の神聖な場所だったと、後に聞いたことがある。

 

電車を降りると、朝よりもずいぶん大きさを増しているような太陽が我が物顔で空にいて、こちらを見下ろしてゲラゲラと笑っていた。

 

登山道入り口」と書かれた看板の立つ場所に到着したぼくたちは、その看板の脇に並んで立てられている登山道のガイドマップを見ながら、リュックを開いて水筒を取り出した。帽子と額の隙間から汗がダラダラと垂れてくるので、ぼくはタオルも一緒に取り出して額を拭う。

 

この山には登山道とは別にロープウェイを使って登ることも出来るようで、どうやらその登山道入り口から少し離れた場所にロープウェイ乗り場があるようだった。

 

「ジンくん、どうしようか、歩いて登れるかな?」

 

「うん、登れると思うよ。」

 

「それとも、行きはロープウェイで昇って、帰りに山の上から歩いて戻ってこようか?」

 

「うん、それでもいいよ!」

 

「そうか、じゃあ、そうしようか。」

 

「うん!」

 

祖父は静かな笑みを浮かべてぼくのリュックを軽く触ると、ぼくを先導するようにして歩き出した。

 

登山道入り口からロープウェイ乗り場までは、歩いて十分ほどだった。夏休みだというのに、そのロープウェイ乗り場にはまったく人影がなく、当然乗る人がいないのでロープウェイも稼働を休止しているようだった。乗り場の脇の小屋のような場所の中に、白髪の角刈りで作業服のようなものを着た男性が立っていて、小屋の中から覗きこむようにしてこちらを見ている。どうやらその小屋は、ロープウェイの切符売り場になっているらしかった。

 

「すいません、きょうはやってますか?」と祖父がその男性に声をかける。

 

「あっ、上に行かれますか・・・?ちょっと、今日はねえ・・・いや、やってはいるんですがね、ちょっと上のサル山でね、事故っていうか、ちょっと怪我した人が出ちゃってね。今ね、しばらく上に止まったままになってるんですよ。でも、もうすぐその怪我人を運んで降りてくるから、そうしたらすぐ、動かしますから。」

 

祖父はぼくの顔をチラッと見てから「そうですか、じゃあ大人と子供二枚で。」と言って男性に代金を支払っている。

 

「そこの日陰で、少し座って待とうか。」

 

「うん。ねえジジ、上にサル山あるの?。上野動物園みたいなのが、あるのかな?」

 

「ああ、サル山ってのはねえ、動物園みたいなものじゃなくて、山の名前だよ。この山の後ろにある山でね、昔から猿が多く住んでいるってことでサル山って呼んでるんだよ。」

 

小屋の中の男性が無線機のようなもので誰かと話をしている。

 

しばらくして、男性が小屋の窓から顔を出してこちらに手を振った。

 

「あっ、お客さん、今降りてきますから、ほらもう見えてるでしょ!」

 

乗らなかったロープウェイと、登らなかった山の話。

 

男性が指差す方向に、ロープウェイがこちらに向かって降りてくるのが見えた。ずいぶんと錆びついて古びたもののようにぼくの目には映ったが、動きはスムーズのように感じた。

 

ロープウェイの姿を確認してすぐに、祖父がちょっとトイレに行ってくると言って、小屋の脇の狭い駐車場にあるトイレのマークの付いた場所へ早足に歩いていってしまった。途中で一瞬振り返って「ジンくんは?」と言ったので、ぼくは首を横に振った。

 

ぼくの目の前で、ロープウェイが乗り場に到着して、ズンと一回大きく揺れてから停止した。同時に遠くからサイレンのような音が近付いてくるのがわかった。ぼくがその音のする、駅に続く道路の方に目を向けると、救急車が走りこんでくるのが見えた。

 

「あばれるな!あばれるな!!ちょっと、佐々木さん、佐々木さ〜んっ!手伝って!!」

 

ロープウェイの中から二人、揃いのオレンジ色の作業服に身を包んだ男性が、ブルーのビニールシートでぐるぐる巻きにされた担架を運んでくるのが見えた。小屋にいた男性が慌てたようにそちらに駆け寄る。ビニールシートで包まれた担架には、先ほど言っていた怪我人が乗せられているようだったが、その怪我人が中で激しく藻掻いているのか、ビニールシートがボコボコと音を立てて波打っている。

 

走りこんできた救急車がぼくの座っているすぐ脇に停まり、中から救急隊員が二人飛び出してきて、担架の方に駆け寄ってゆく。

 

「早く早く、乗せちゃってよ!!!力が強くてダメだよ!!!」

 

「状況を確認させてください!」

 

「馬鹿野郎、後でいいよ後でっ!!!そんなことやってる場合じゃないだろうよ!!!一緒に乗るから!はやくはやく、飛び出してきちゃうよ!!!佐々木さん、上押さえて、上だよ上!!!ほらっ、お前もちゃんと押さえよろ、馬鹿!!出てきちゃうよ!!!!」

 

目の前のやり取りが普段あまり見ることのない激しいものだったので、ぼくは少し怖くなってしまって、立ち上がって後ずさりをしながら様子を伺っていた。

 

担架に乗せられた怪我人を取り囲んだ五人の大人たちが、まるで夏祭りの神輿でも担ぐような勢いでワアワア言いながら近付いてきて、ぼくの横まで来た時、ビニールシートの一部がバリバリバリっと大きな音を立てて破れ、

 

中から焦げ茶色の毛に覆われた、長い腕が突き出てきた。

 

ぼくは思わず「わあああっ!!!」と大声をあげてしまうが、他の大人たちもみな同じような大声をあげたので、ぼくの声はかき消されてしまった。

 

背が高くて怒鳴っている方の作業服の男性が、腰から出したハンマーのようなもので、その腕を何度も殴りつけてビニールシートの中に押し込んでいる。

 

「ちょっと、なんなんですかっ・・・これはっ!いったいこれはなんですかっ!?」と救急隊員のひとりが大声をあげているが、もうひとりの救急隊員は救急車の扉を開けていたため、そちらには目を向けておらず、そのまま救急車の中に全員で雪崩れ込むようにして担架を押し込み、その背の高い男性と担架を乗せて、救急車は走りだしてしまった。

 

サイレンの音が次第に遠ざかってゆく中、祖父が声を上げてトイレから駆け出してきた。

 

「ジンくん、どうしたっ!?」

 

ぼくが目を丸くして祖父の顔を見上げる横で、佐々木と呼ばれていた男性が口を開いた。

 

「ああ、すいません、怪我人がショック状態で暴れちゃいましてね・・・、ここでいまちょっとゴタゴタと、救急車に乗せてもう済みましたから、さあ、どうぞ、ロープウェイ、動かしますから。」

 

その時一瞬、男性がぼくの方をすごい形相で睨みつけたような気がして、ぼくは思わず祖父のシャツをギュッと握ってしまう。もう一人の作業服の男性は、死んだような真っ白い顔をして、額から汗をダラダラと垂らしながら、口を開いてハアハアと激しい息遣いをしていた。

 

男性に案内されて先にロープウェイに乗り込んだ祖父が、いきなり声を上げる。

 

「なんだ・・・、この臭いはっ?」

 

ロープウェイの中が、異様な獣臭に塗れていた。

 

上野動物園の獣の檻の中から漂ってくるあの臭いに似ていたが、それよりもっと凶暴で荒々しく、何か生々しい血のような臭いも混じっていた。ぼくは子供がよくやるような大げさな表現ではなくて、真剣に吐き気をもよおして、嗚咽してしまった。

 

結局、周囲の異様な状況を動物的に察知した祖父が、ロープウェイに乗るのも、その山のハイキングも急遽中止して、電車で少し戻った場所にある自然史博物館を見学して、その休憩所でおにぎりを食べて麦茶を飲み干し、午後の早い時間には帰路についていた。おやつのチョコレートは家に帰ってから、ほんの一口かじっただけだった。

 

祖父があのロープウェイの中で見せた、今まで見たことのないような殺気立った表情も含めて、あの日のことは、今でも鮮明に覚えていると、自分では思っている。

 

いつか祖父が言っていた。

 

「ジンくん、山には、いろんなものがいるから。」

 

お題「怪談」

 

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月白貉