ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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私が花火大会に行かなくなった理由

数年前の八月に起きた出来事をきっかけに、私も妻も、その後二度と花火大会には行かなくなった。

 

その年の夏は、雨がまったくと言っていいほど降らず、まさに地獄のような暑さだった。

 

市内の湖で毎年恒例の花火大会が行われるということで、私はその日、まるで子供のように、朝起きてからずっと花火大会のことばかり考えていた。

 

長く東京に暮らしていた私が結婚を機に妻の郷里であるこの土地に移り住んで、もう二年と少しが経過する。その間に二度、湖での花火大会が開催されたのだが、一度目もそして二度目も、花火よりも優先せざるを得ない用事のため、残念ながら湖上に打ち上がる花火を見ることは叶わなかった。

 

一度目は古い友人の結婚式と重なり、二度目は父の死だった。

 

今日行われる予定の、私にとっては三度目のチャンスとして巡ってきた花火大会、今回はやっとツキが回ってきたようで、その日の私の用事は花火大会にゆくこと以外には何も見当たらなかった。

 

「ねえ、バスで行く?」

 

「いや、車でいいだろ。」

 

「でも、花火見ながらビールが飲めないよ。」

 

「ビールはいらないよ、家に帰ってきてからゆっくり飲むから。だいたい、花見もそうなんだけど、おれは純粋に花火を楽しみたいんだよ。酒は酒、桜は桜、花火は花火。団子は帰ってきてからでいいよ。団子は団子。」

 

「はいはい、じゃあ車でいきますか。」

 

それから家の掃除をしたり、久しぶりに車を洗ったり、レンタル店で借りてきた映画をこなしたり、本を読み始めてうたた寝をしたりしていたら、あっという間にもう午後の六時半を過ぎていた。夏の陽はいつまでも果てしなく高く、その時間になっても、空はまだまだ光を抱きかかえて、暑さにまどろむようにしてぼんやりとしていた。

 

「おい、そろそろ行かなくちゃだな、行こうか。」

 

「はいはい、ちょっとこの煮物だけ仕込んじゃうから、あとすこし待ってね。」

 

そうやって結局、車で家を出発したのは午後七時を少し回った頃、花火大会は午後八時から打ち上げ開始予定だとホームページに書かれていた。家から湖までは、早ければ車で十五分といったところ、何もなければ普通に十分間に合う時間だと私も妻も高を括っていたが、湖に向かう道路は大渋滞を起こしていた。湖の周辺に到着したのは、もう七時五十分、そして当然のごとく周辺の駐車場は全て満車、普段では考えられない程の人の波が荒々しくうねっていた。

 

「地方都市だからって油断してたけど、花火大会ともなれば、やっぱりどこも同じか・・・。」

 

「どうしようか・・・?このまま車で走りながら流し見る?」

 

「そうだねえ・・・、でもせっかくだから、ちょっと湖から少し離れて、どこかに車を停めようか。」

 

湖周辺の混雑を掻い潜り、湖から少し離れた閑静な住宅街の細い路地に迷い込んでみると、その道路脇を埋め尽くすようにして路上駐車の列がはるか遠くまで、オオムカデの体のように続いていた。

 

「うわっ・・・大変なことになってるな・・・。」

 

その時、バックミラーが鮮やかな色にきらめいたかと思うと、背後の空から一発目の花火の音がズンと体に響いてきた。

 

私が花火大会に行かなくなった理由

 

「あっ、始まっちゃったよ!!どっか、あの列の最後辺りに停めちゃおうよ!」

 

普段なら欲求よりもマナーを優先するように心がけているのだが、その時の瞬間的な妻の言葉に押し流されて、そのまま路上駐車の列の最後尾に車を止めて、湖の上の方の空を見上げながら、妻と手をつないで歩き出した。

 

空に打ち上がる花火を見たのは、どれくらいぶりだろうか。東京でも夏になると、様々な場所でいくつもの花火大会が行われていたが、こうやって誰かと手をつないで花火を見に来るのは、なんだか何十年ぶりのように思えた。

 

たしか最後に見た花火は、打ち上がる真下からのものだった。私の頭上で、花火は球形になって立体的に宙に浮かびあがり、小さなビックバンのように空に広がった。そして張り裂けんばかりに広がりきって、命尽きて消える直前、火の粉のひとつひとつが暴れ狂いながら地上に降り注ぎ、私の目の前まで来て、ハリハリと音を立てて弾け飛び、最後は静かに色を失った。

 

「ここからでもじゅうぶん綺麗に見えるね、わあ、大っきいのがあがった!湖まで行かなくても、ここでいいね、静かだし。」

 

遠くの大きな水たまりの上にはじけ飛ぶ火の玉の光の唸りが、放った光からはずいぶんと遅れて、二人の体を突き抜けた。ズドンズドンと、何度も何度も見えない大砲の弾が体を貫通してゆくような、その力強い震えが心地よかった。

 

真下から見上げる花火と、遠くから眺める花火と、どちらのほうが好きかと妻が横で言うので、その二つはまったくの別物で、比べるような種類の事柄ではないと、私は頭の中では思ったが、両方ともに好きだよと、そう応えを返した。 

 

それからしばらく二人とも黙ったまま、住宅街の路肩で空を見上げていると、前方から一台のパトカーが、ケバケバしいパトランプを回しながらゆっくりと滑るようにしてこちらに近付いてくるのが見えた。そして二人の立っている場所の少し手前で停まり、中から二人の警察官が降りてきて、ずらりと並んで路上駐車している車のフロントガラスに何かを貼り付けだ出した。

 

「まずい・・・、車に戻らなきゃ。」

 

私と妻は顔を見合わせてから、何事もなかった風を装ってふいっと後ろに振り返り、また手をつないでゆっくりと自分の車に向けて歩き出した。背後から男性と女性の警察官が何かゴソゴソ話をしている声が聞こえている。すると妻が急に小走りになって声を上げた。

 

「あっ、もう貼られちゃてるよ・・・!」

 

自分の車のフロントガラスに目を向けると、たしかにそこには白い紙切れのようなものが置かれているのが見える。しかし、周囲には警察官やパトカーの姿は見えないし、さらには私の車の前に停められている車にも、その前の車にも、フロントガラスには一切紙切れのようなものなど見当たらない。私は妻の後を追って車に駆け寄る。

 

私の記憶だと、放置車両確認標章は黄色いステッカーだったと思う。以前に見知らぬ誰かの車に貼り付けられているのを見たことがある。

 

私の車のワイパーにはさまれていたのは白い和紙のようなもので、裏側に太い筆で書いたような黒い大きな文字が見受けられる。その時ふと頭をよぎったのは、近隣の住民が迷惑な路上駐車に対しての注意を即すために、あるいは腹いせに、自らの意志で紙に何かを書きなぐって、最初に目についた車のワイパーにはさんだのではないかということだった。

 

私がその紙に手を伸ばす前に、妻が先に紙を手にとって文字の書いてある面に目を通している。

 

「ちょっとなにこれっ!!!」と妻が叫び声のようなものをあげて、手に持った紙を地面に投げ捨てる。少し驚いた私は、紙を拾い上げて、その文字に目を向ける。

 

車の下で、猫が死んでいます。

 

白い紙には小学生が書道の時間に書いたような筆跡で、「車の下で、猫が死んでいます。」と、書かれていた。私は「えっ!」と声を上げて、その紙を手に持ったまま地面に四つん這いになって、車の下を覗き込んでしまう。街灯が少ないため、車の下は真っ暗でよく見渡せない。私は妻に「LEDライト取って、車の中にあるから!」と言いながら、さらに車の下の暗がりに目を凝らす。車の下の地面に異物のようなものは確認できない。

 

「これでいいのかな・・・。」と言って妻が私の背中を叩いて、私にLEDライトを手渡してくれる。手に持ったライトを点けて改めて車の下を隈なく照らしてみるが、猫どころか虫一匹さえも死んではいない。

 

「どうされましたか?」

 

先ほどの警察官が声を掛けてきた。

 

「あっ、あの、ちょっと小銭を落としてしまって・・・。」

 

私は咄嗟に嘘をついていた。車の下で猫が死んでいると書かれた紙が車のワイパーにはさんであったので、本当に車の下で猫が死んでいるのかどうか確かめていたんです、なんていう返答をしたら、もしかしたら厄介なことになるかもしれない。瞬間的にそう判断した私の口からは自然と、そんな言葉が流れ出ていた。

 

「ここは駐車禁止ですから、ここには停めないでくださいね。」

 

妻が唖然とした顔をして立ち尽くす中、私は立ち上がって「はい、すぐに出しますから。」と言い、妻に車に乗るように促すと、自分もすぐに車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーを覗き込むと、車の後ろの路肩に老婆がひとり佇んでいるのが、薄暗い街灯に照らされて映っている。今の今までその存在にはまったく気が付かなかったが、その老婆が胸に何かを抱きかかえている。

 

「ねえ、後ろに立ってるお婆さん・・・。」

 

私が助手席の妻に声をかけると、妻が後部座席の方に振り返って身を乗り出し、リアガラス越しにその老婆に目を向ける。

 

「猫持ってるっ!血だらけの猫持ってるよっ!!!早く出してっ!早く出して早くっ!!!」

 

私は急いでアクセルを踏み、その場から離れた。車が発進する直前、バックミラーに映る薄ぼやけたような老婆の影は、確実にこちらを見ていて、口を開いて歯をむき出して、叫ぶように笑っていたように見えた。

 

走りだしてからしばらくして、私は左手にあの紙を握りしめたままだったことに気が付いて、両腕に鳥肌が滲みだす。その時、ちょうど通りの先にコンビニエンスストアが見えてきたので、その駐車場に入って車を降り、店先のゴミ箱にその紙切れを投げ入れる。

 

「猫、ひいたのかな・・・?」と、車から降りてきた妻が小さく口を開く。

 

「いや、それは絶対にない。そんなことがあればすぐに気が付くよ。それに、さっき車の下を隈なく見たけど、そんな跡はなかったよ。心配しないで、あれは何か別の・・・、まあいいや、なんか飲み物でも買おうか。」

 

その後、家に帰ってからも、次の日も、その次の日にも、いままでずっと、私と妻の生活に何か奇妙な影を落とすような出来事が起こったことは、一度もなかった。

 

けれどその夜の花火大会での出来事が、あの一瞬の、理不尽で、そして底の見えない真っ黒く濁った沼のような恐怖が、深々と記憶に刻まれてしまって、そしてなぜか、それが花火大会にまでも複雑に絡みついてしまって、次の年も、その次の年も、そしてもちろん今年も、湖で行われた花火大会には、行かなかった。

 

それが私が、花火大会に行かなくなった、唯一の理由だった。

 

お題「花火」

 

お題「怪談」

 

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月白貉