ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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カミサマトンボとアリジゴク

風が止んで茹だるように暑い夏の昼下がり、私は妹と一緒に近所の古い鎮守様の境内で、本殿の床下に山ほど築かれた蟻地獄に蟻や団子虫を落として遊んでいた。

 

太陽の光がカラカラと木陰に舞い落ち、蝉がその光に合わせてケラケラと笑う。

 

「おねえちゃん、アリジゴクってなんなん?」

 

「知らん。蟻の地獄だよ。」

 

「アリのテンゴクはないん?」

 

「天国は・・・、蟻の巣だよ。」

 

妹が無邪気にキャハキャハ笑いながら、また一匹、蟻を蟻地獄に突き落とす。

 

蟻はすり鉢のような穴の内壁面に足を取られながら必死に這い上がろうとするが、穴の中央から大量の砂が火山のように噴き出し、その砂の礫が蟻の体に降りかかっては足元を奪って流れ落ち、蟻を穴の底へ底へと誘ってゆく。

 

「あっ!おねえちゃん、アリジゴクおった!」

 

穴の底に到達した蟻の体の左右の砂の中から、砂と同じような色をした歪な刃を持つ禍々しい鋏が突き上がり、おかしな具合に体をねじらせて藻掻き苦しむ蟻の体に喰らいついて砂の中へと引きずり込んでいった。蟻はその瞬間小さく泣き叫んだが、すぐに砂に口を閉ざされて聞こえなくなった。

 

私と妹は静まり返った蟻地獄の縁にしゃがみこんで、しばらくの間その深淵を黙って見つめていた。麦わら帽子と髪の毛の隙間から、生ぬるい汗の玉が、ゆっくりと時間をかけながら皮膚をつたって頬まで垂れ落ちてくる。気が付くと周囲から降り注いでいた蝉の笑い声も消え失せていて、境内の中は異常なくらいにシンと静まり返っている。

 

汗に濡れた私の背中が不意にタンタンと叩かれたので我に返って顔を上げると、妹が目をビー玉のようにして正面の床下の暗がりを凝視して不動に固まっている。「なあに?」と聞いても返事はせず、ピクリとも動かないで何かを見ている。「なんなの?」と再び声をかけると、右掌の短い人差し指で弱々しく何かを指差したので、その妹の小さな指の先に目を向ける。

 

本殿の床下の木枠の組まれたもっと先の淡い闇の中には、古い屋根瓦や、錆びた釘の打ち付けられた木材の切れ端や、顔が半分崩れて苔生した石の狛犬が打ち捨てられたように置かれていて、皆一様に淡い闇の色に染まっている。狛犬の顔がちょうど二人を見つめるようにして置かれているので一瞬サッと背中を冷たいものが走り抜けるが、妹がそれを指差しているのだろうと思い「狛犬だね・・・」と言いかけた時に、その狛犬の奥にもうひとつ何か形を持つ影があることに気が付く。

 

「おねえちゃん、あれ、なんなん?」

 

よく目を凝らしてその影を見てみると、四肢を持つ人形のものが片膝を立てて座っていて、狛犬と同じくこちらにじっと目を向けている。喉の奥に飴玉ほどの小さな塊が詰まったような不快感があり、ゴクリと唾を飲み込む。

 

「ネコなん?」

 

妹の言葉にああ猫かと思った途端、喉につかえた異物感は唐突に姿を消す。はじめに人だと思ってしまうと、それが犬や猫だろうとも、もはや自分の目には人にしか映らなくなる。そして人がなんであんな場所に座っているのかと思い出すと、もう自分では後戻りが出来ず、その薄暗がりも相俟っておかしな妄想をし始めてしまう。ただの野良猫を何か化物地味たものに仕立てあげてしまい、仕舞にはその闇にすっぽりと包み込まれてしまって、息も出来なくなる。

 

「野良猫かな・・・あっち側から、」

 

「おねえちゃん、こわいっ!!!!!」

 

急に空気を切り裂くような甲高い声を張り上げた妹が、飛び上がるようにして立ち上がって鳥居の方に向けて猛烈に駆けてゆき、その途中でザザーっと大きな波が打ち寄せるような音を立てて前のめりに転倒する。突っ伏した体の周囲からモウモウとした砂埃が宙に舞い、妹のギャアと泣き叫ぶ声が境内の静寂を掻きむしるようにしてこだまする。

 

私があっけにとられてその一部始終を蟻地獄の縁にしゃがみこんだまま見つめていると、妹は再び立ち上がって泣きじゃくりながら鳥居の下をくぐって石段を降りて行ってしまった。

 

何が起きたのかわからずにポカンとしてしまい、その場でしばらく誰もいない鳥居の下に目をあそばせている。不意に頬に吹きかかる生暖かい風を感じて、私がもう一度床下の暗がりに目を向けると、もうすぐ目の前に、毛のすべて抜け落ちた皮膚病の猿のような肌色のものが立っていて、口をクチャクチャと鳴らしてこちらにゆっくりと歩を進めながら、私に縋り付くようにして手を伸ばしている。

 

私はすぐにそれから目をそらすと、横斜めに飛び上がるようにして立ち上がり、声を出すことも忘れて無意識の内に鳥居に向けて必死に走ったが、足が震えてまともに走れず鳥居の直前で足を縺れさせて、妹とまったく同じような格好で前のめりに転倒してしまう。その瞬間、胸のあたりからどす黒い恐怖がせり上がってきて喉の辺りで耐え難い不快臭を放った。私はそれを口から吐き出すようにして、嗚咽にも似た声を上げて泣き出してしまう。立ち上がろうとしても腕が震えてうまく立ち上がれない。地面の砂の上に涙の玉がぼたぼたと降り注いで斑な模様を描いている。

 

本殿の方から急に大きな笑い声が響いてきて、驚いた私はビクッと身を震わせて、咄嗟に腕に顔を埋める。

 

うつ伏せに倒れて体をこわばらせている私に、どこからか知れないがバサバサと大量の砂が降り注ぎだし、誰かが私の左足首をすごい力でギュッと掴んで足を引っ張り、後ろに引きずっていこうとしている。

 

「アヤ〜っ!!!」

 

お父さんの声がする。

 

鳥居の方からお父さんの声がして、それと同時に何かまばゆい光の塊みたいなものが鳥居をくぐって境内の中に入ってくる。それがどんどん私の方に近付いてくる。そして涙でぼやける視界の先が、ぼんやりとした光に満ち溢れる。

 

そこで私の意識も記憶も、シュンっと、途絶えてしまう。

 

幼かった私は、蟻地獄はあの砂の穴の中にしかいなくて、あそこに落ちさえしなければ恐いことなんかひとつもないと思っていた。

 

蟻地獄は捕らえた蟻や団子虫に消化液を注入して体の組織を溶かし、そのドロドロになった蟻や団子虫の体を口でジュルジュルと吸って貪り喰う。さらに蟻地獄の消化液には多数の昆虫病原菌が生息していて、その菌に感染した獲物は、体がおかしな色に変色してもがき苦しみ、最後には死に至る。

 

やがて蟻地獄は成長して、薄羽蜉蝣となって羽を持ち、砂の穴を抜けだし自由に空を飛び回る日がやって来る。けれど姿を変えて薄羽蜉蝣になっても、蟻地獄だった頃と同じように、肉を貪り食うことはやめないという。だからその瞬間、地獄は砂の穴の中から解き放たれ、世界に溢れだしてしまう。

 

もちろんあの日の私は、蟻地獄が薄羽蜉蝣の幼虫だということなど知る由もなかった。

 

けれど、いつだったか忘れたが、私のおばあちゃんが薄羽蜉蝣の話をしてくれたことがあった。

 

カミサマトンボとアリジゴク

 

「アヤちゃんねえ、この虫は、神様トンボとか、極楽トンボっていうのよ。でもねえ、毒を持ってるの。ちょっと恐い虫だわねえ。だから、いくら神様だの極楽だのっていってもね、やたらと近付いたり触ったりしたら、危ないから、気を付けなさいね。」

 

あの神社のことがあって以来、私は無闇に神社には近付かないことにしている。もちろんあの神社には当然、その後も二度と足を踏みれたことはない。

 

あの時、私と妹に何が起こったのか、お父さんもお母さんも幼い私たちにはきちんと話してくれなかった。いつか大きくなったら全部話してあげるよと言っていたけれど、いまだにあの時の話には、あまり触れようとはしない。

 

お父さんは言っていた。

 

「アヤ、お父さんのお母さんには、えっと、おばあちゃんってことね、アヤのおばあちゃんには、ちょっと特別な力があってね、他の人には見えないものが見えることがあるんだよ。だからね、もしかしたらアヤにもミナにも、そういうものが見える力があるかもしれない。だから、いずれ大きくなったら、そういうことが自分たちでもわかるようになる時が来るだろうから、その時になったら話してあげるし、その時になったら、もうお父さんが話さなくても、自分たちで理解できちゃうだろうからさ。」

 

今の私は、もう知っている。

 

蟻地獄が薄羽蜉蝣の幼虫で、いずれ人知れずあの穴を抜けだして、あの地獄と呼ばれる場所を抜けだして、どこにでも行けるようになって、どこにでも好きな場所に潜むことが出来て、そこで息を殺して獲物を待ち構えていることを、そういうものがこの世界には山ほど存在していることを、今の私は、もう知っている。

 

神様なんていう名前を手に入れているから、その言葉だけに惑わされた愚かな人々はあっさりと騙されてしまうかもしれないけれど、あれは危険な毒を持っていて獲物の肉を喰らうのだということを、今の私は、もう知っている。

 

妹は幸か不幸か分からないが、おばあちゃんの持っていた力を、どこかの時点で無意識に封印してしまったらしい。だから妹には、今の私のようには世界は見えていないはずだった。

 

「おねえちゃん、アリジゴクってなんなん?」

 

あの日、妹は私にテンゴクはないのか?と、言ったような気がする。

 

今の私には、この世界のどこにも、天国なんてものがあるようには思えなかった。

 

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月白貉