ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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三日『天使と悪魔』- 八月怪談

一週間ほど前から下腹部に鈍い痛みがあった。

 

このところ仕事が忙しい上に社内での揉め事が多く、すいぶんと精神的なストレスも溜まっていた。それを洗い流すかのように、毎晩のように営業主任の高橋さんと仕事終わりに大酒を喰らっていた。

 

「このあいだから、なんだか胃の下のほうがズキズキ痛むんですよ。」

 

「えっ、それは気をつけたほうがいいですよ、こうやって毎晩毎晩酒ばかり飲んでるから。ぼくもね、この間ちょっと気になって肝臓の検査をしてもらいに行ったんですよ。でね、検査の前日には酒は飲まないでくださいって言われてたのに、大酒飲んじゃって!結局検査出来ませんでしたよ、はははははっ。」

 

そう言って高橋さんは大笑いしたが、おそらくはそれもぼくとの大酒の日だったのだろう。

 

その夜も終電で家に帰ってから、やはり何か下腹部に嫌な痛みを伴う違和感がある。そのことを同棲中の彼女に話すと、病院に行って診てもらったほうがいいんじゃないのかと不安そうな表情を浮かべて言うので、次の日の午前中に半休をとって病院に行くことにした。

 

ぼくが訪れた近所の病院は、修道院が経営の母体となっている歴史の古い総合病院だった。

 

修道院を基礎にしているだけあって、病院内には修道女の格好をした中高年の女性、いわゆるシスターが当たり前のようにゾロゾロと行き交っていて、また病院自体も外国の建築家によって設計された歴史的な建造物らしく、日本の病院の雰囲気とはまるで異なっていた。それこそ中世ヨーロッパの修道院の中のようだった。

 

シスターとは別に普通の看護婦の格好をした女性も数多く働いていたのだが、受付を済ませてから廊下の待合のベンチに腰を下ろして病院内の様子を何気なしに伺っていると、シスターの格好をした女性たちの一部は、看護婦と同じ役割を担っているようだった。

 

近隣でもなかなか評判のよい病院らしく、その日もずいぶん混み合っていたが、ぱっと見る限りでも半数以上の利用者は日本人ではなかった。肌の色も国籍も関係なく、様々な人種の人々で溢れていた。

 

混んでいることを想定して診察受付開始時間よりもずいぶん早めに行ったつもりだっのだが、初診ということもあり、診察まではずいぶんと時間が掛かりそうだった。

 

病院の廊下の天井は高く、天井に近い部分の窓がステンドグラスのようになっていて、その色鮮やかな窓を通過した陽の光が廊下に不思議な色合いの影を落としている。

 

三日『天使と悪魔』- 八月怪談 -

 

その影を見つめながらぼんやりとベンチに座っていると、多くの人々でごった返す廊下の、ぼくの視界の右端の方に、何か強く光るようなものを感じる。なんだろうと思って目を向けると、そこにはひとりの年老いたシスターが、廊下のど真ん中をゆっくり、ゆっくりと歩いてくるのが見える。シスターは腰が曲がっていて廊下の床を見つめるようにして歩いている。さらにはフードを深々とかぶっているため、顔はまったく見えない。ただその雰囲気から、ずいぶんと高齢なのではないのかと想像する。

 

先ほど強い光を感じたのは、天井の窓からの光がシスターの体を照らしているのだろうかと思ったのだが、廊下を行き交う人々の中でただひとりそのシスターだけが、光り輝いているように見える。

 

ぼくは不思議に思って、しばらくそのシスターに釘付けになる。

 

広々とした廊下はそれこそ、渋谷のセンター街ではないかと思うくらいの人々が絶え間なく慌ただしく歩きまわっているのだが、シスターはそのまさに中央を、歩いているのか止まっているのかもわからないくらいのスピードで、ぼくの座っているベンチの方へ向けて進んでくる。よく見ていると、周囲の人々はシスターを一切避ける素振りは見せないのだが、なぜか誰ひとりとしてシスターにぶつかりそうになったり、少しでも接触しそうになっているような様子がない。それどころか廊下の中心にいるシスターがまったく見えないものかのように人々が行き交っているように見える。それでもなぜか、皆一様にして、シスターの軌道上には自然と足を踏み入れずに歩いている。

 

シスターは依然として、廊下のど真ん中からいっさいズレることなく、一直線にこちらゆっくり、ゆっくりと進んでくる。

 

何かそれはインターバル撮影の空と大地の映像のように見えた。

 

すると、ぼくの目の前を左からビュウと唸るような風とともに大きな影が通過する。少し驚いてはっと目を向けると、それは大柄でずいぶん太った黒人の男性で、高級そうなグレーのスーツに身を包んでいて、頭にはグレーのシルクハットのような帽子をかぶっている。一瞬だけ見えた横顔は笑っていて、目には丸型のサングラスをかけている。左手には枯れた樹の枝のような、おかしな具合にネジ曲がった真っ黒くて長いステッキを握りしめている。

 

その男性はずいぶんと巨体なのだが、歩き方は実に軽やかで、なんだか空中をすべって移動でもしているように見える。ぼくの前を通り過ぎた彼の背中を目で追っていると、彼もまたシスターと同じように廊下のど真ん中を歩いている。当然、男性がそのまま歩いてゆけば完全にシスターの目の前に到達することになるだろうとは思ったのだが、周囲の他の人々とはどうも様子が違っている。あの位置からであれば、目の前を歩いてくる腰の折れ曲がった老シスターの姿をすでに捉えているはずなのに、一向に廊下の中央から脇に逸れる気配がない。そう思っている間に、男性がシスターの真正面に立っていた。

 

二人は歩みを止めているようで、そのまましばらく動かなくなる。あの黒人の男性はシスターと知り合いで、何か話でもしているのだろうか。

 

すると、シスターが左の手を宙に浮かせて男性の腰のあたりをチョンチョンと撫でるような動作をしているのが見えた。

 

修道服の袖から伸びるシスターの左手が異様に大きいことに気が付く。通常の人間の手ではあり得ないくらいの、軽く二倍はあるのではないかというほどの大きさをしている。

 

腰を撫でられた黒人の男性が、徐ろに振り返って明らかにぼくの方を向いて、サングラスを外して口を開いてにやりと笑う。するとそのタイミングで、シスターが右手で修道着のフードを軽くめくりあげ、男性と同じようにしてぼくの方に顔を向けて、口を開いてにやりと笑った。

 

二人とも、歯が金色に光っていて、顔には目がなかった。

 

ぼくは「あっ!」と声が上がりそうになるのを押しこらえて、顔ごと目をそらしてしまう。

 

顔を向けた方の廊下の反対側にいた数人のシスターが、ぼくの方を見て何か陰口でも叩くように、クスクスと笑っているのが見えた。

 

お題「怪談」

 

 

 

 

月白貉