ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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土用の丑の日のウナギは、美味いのか不味いのか。

時々ふらりと立ち寄る小さな古本屋がある。

 

「冬ごもりをする場所」という意味の名前をひっそりと掲げる古本屋で、古今東西の食に関する古本を扱っている。

 

つい先日、そこの女主人と話をしていて、ウナギの話になった。生き物としてのウナギではなく食べる方のウナギの話である。ウナギの話の前にはトリュフの話をしていて、トリュフの話の前にはショウロの話をしていて、その前にはマツタケの話をしていた。

 

ウナギの話の発端はマツタケの話であった。

 

「香り松茸、味しめじ」などと昔から言われる。まあご存知だと思うが、きのこの中でも芳香はマツタケが上だが、味はシメジが上だということである。ただこのシメジとは、昨今スーパーマーケットなどで大量に見かける安価なブナシメジではなく、ホンシメジのことである。ホンシメジは今でこそ人口栽培されているのだが、かつては天然のものを収穫するしかなかったため、今日の松茸に匹敵する、いやそれ以上の高級品だったとされている。

 

このことを知らないと、高価なマツタケよりも味は安価なシメジのほうが上だ、というような意味に捉えてしまいがちであるが、実はどちらもそこそこ高級品、しかも昔はマツタケは今ほど珍重されるような高級きのこではなかったそうである。女主人の話によれば、「うちの母親なんかに聞くとね、マツタケなんて昔はどこにでも生えてたって言われるのよね。」とのこと。シメジの味がマツタケに優っているということは、取り立てて言うようなことでもなく、当たり前だったのかもしれない。

 

マツタケの話からショウロの話に移行する。ショウロのことは風の噂に聞き及んでいるが、ぼくはショウロなんてものを食べたことがない。女主人も食べたことはないそうである。「ショウロってトリュフみたいなものだと思ってたけど。」と言っていた。違うような気もするが、ショウロを食べたことがないので、なんとも言えない。

 

そしてトリュフの話に移行する。トリュフは食べたことがあるが、あるとは言っても口にしたことがあるのは、なんだかソースの中に少量まぶされていたり、粉末が潜んでいたりするようなものばかりで、実態をよく知らない。あの何か動物のフンのような黒い塊にかぶりついたことはない。あれにかぶりついて初めて、食べたと言えそうな気がする。まあでもトリュフもマツタケと同じで香りありきのものだというイメージが強い。「トリュフなんてあんまりおいしくないよね。」と女主人が言う。確かに言われてみれば、そんなに美味しいものではないかもしれない。

 

そして二人で、マツタケもトリュフも特に食べたいとは思わないということで意見が一致する。ああいうものをうまいうまいと言って山盛り食べているような人々とは、仲良くなれない気がする。

 

そしてどう転んだのか、ウナギの話になる。土用が迫っていたからかも知れないが。女主人はウナギもやはり、特に食べたいとは思わないという。ぼくもその点では同じく。ただ、「年に一度くらいですね、食べても。」と言うと、「一生食べなくてもいいわ。」と返される。その言葉を受けてよくよく考えてみると、まあ確かに、一年に一度しか食べないなら、一生食べなくても同じようなものであろう。

 

土用の丑の日のウナギは、ウマいのかマズいのか。

 

マツタケ、ショウロ、トリュフ、ウナギ、みな高級品と呼ばれる食材であるが、一様にして際立って美味しいものかと言えば、さて。無料で配給されるなら毎日食べたいかといえば、さて。

 

毎日食べたいのは、何の変哲もない目玉焼きに醤油をぶっかけたものだったり、漬かり過ぎたぬか漬けだったりする。それは際立って美味しのかと言われると、さて、そんなこともない。

 

きっと食欲というのは、美味しとか不味いとかだけで語り尽くされるような単純なものでもないのであろう。確か何かの本で、開高健もそんな風なことを書いていた気がする。

 

さて今日は土用の丑の日らしい。ウナギの蒲焼なんてもう何年食べていないだろう。ってことで、今日は暑気払いに、ウナギに冷酒とシャレこむか。

 

 

最後の晩餐 (光文社文庫)

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月白貉