ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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ぼくが、小説を書く、ということ。

ぼくはこのウェブログで、小説のようなものを時折、書き連ねている。

 

厳密なる小説の定義はさて置く。ぼくの書いている文章が小説なのかどうか、そんなことは実はどうでもいいのである。誰かが読んで満足する部分があれば、それもよし。不満があるなら読まれないだろうから、それもまたよし。あなたの小説を読ませていただきましたよ、な〜んて声をいただければ、なおよし。いずれにせよ、誰かの目に触れるのは悪い気はしない。ただ、いかんせん、自己満足が何よりも心地良いことには、違いない。

 

誰かの言葉に縛られすぎると、手足が動かなくなる、と、何かの物語に書かれていたことを、ぼんやりと思い出す。

 

ぼくが、小説を書く、ということ。

 

ねえムカデくん、きみはそんなにたくさんの足をもっていて実に素晴らしいね、だた、いったいどうやって動かしているのか不思議でならないから、ぼくに教えてよ。前に進むときには、いったいどの足を最初に動かして、二番目にはどの足を動かすのか、三番目と四番目の足の動かし方はどうするのか、それを詳しく教えてよ。そう言われたムカデは、考えすぎて歩けなくなってしまう。そんな話だったような気がする。

 

誰かの書いた小説に感銘を受ける。どんな風にしたらこういう文章が書けるのだろうかと思う。もし自分が長い文章を書きたいと願うならば、誰かの小説に恋い焦がれて、無意識にでも文章を真似するかもしれない。それでも、もちろんいいだろうと思う。それで長い文章が書けるようなら、十分、文章を書く力があると思う。真似るでも何でもして、自分の満足の行く場所までたどり着けばいい。そこで、真似たところで、同じような文章は到底書けないことに気が付く。同じような小説は到底書けないことに気が付く。

 

その繰り返しから、何か自分のものが、生まれて来る。

 

大抵は、何かが生まれてくる前に、真似に特化してしまったり、もう無理だと言って挫折してしまったりするだろう。それはそれでも、いいと思う。それは自分が決めることだから。

 

ぼくはずっと長い文章を書くことに憧れ続けていたけれど、小説を書くことに憧れ続けてたけれど、なんとか、かんとか、小さな塵のような文章を書くことが出来るようになったのは、この一、二年だと思う。まあ、客観的に書くことができているのかどうかは、知らんけどさ、ここはあくまで自己満足および自己申告ということで、真偽の程は、これを選んで読んでくれている、奇特で親愛なる、見知らぬ貴方に委ねることにする。

 

しかし、意気込みとしては、立ち向かってみた。文章を書くということに立ち向かう努力を、少なからずしてみた。そしてまず、立ち向かうということを知ったけれど、それによって、立ち向かうべき壁が初めて見えてきて、それこそ壁の高さに、息を飲む。結局、何かに立ち向かうかぎりは、どこまで行っても自分はスタート地点にいるような感覚っていうのが、少しわかる。そしてそれは、真剣に立ち向かった時に、初めてわかる。

 

なんて理不尽な世界を、人は生きていかなければならないんだと、正直思うけどさ。

 

先に進めば進むほど、その先のものは必ず見えてきてしまう。見えてきてしまうのか、あるいは見えているような気がしているだけで、そんなものはないのかもしれないけれど。

 

そんな風にして、いまはただ、自分を信じて、自分の欲望に任せて、文章を書いている。たまには小説を書いていると、イキガッて言ってみることもある。

 

その行為が、いずれ何かの塊になればと、そうなればいいなと思う。無骨でも、苔生したものでも、糞の塊のようなものでもいいから、そうなればいいなと思って、そう願って、ぼくは、小説を書く、ということだ。

 

 

 

 

月白貉