ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲ことパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)が、自らの感覚で古き日本を歩きまわって独自の感性で見聞を広めたように、遠く故郷を離れてあてどなき夢想の旅を続けるぼくが、むじなと、そしてラフカディオと一緒に、見たり聞いたり匂ったり触ったりした、ぼくと、むじなと、ラフカディオの見聞録です。

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東京バーチャルリアリティ

自分を変えることができるのは、生活環境の改善でもなければ、周囲の人間の優しや厳しさでもない。雑居ビルの地下に潜む怪しい占い師の一時間一万円の助言でもないし、書店に積み上げられたベストセラーの啓蒙本や、亡霊になって久しい灰色の偉人たちの名言でもない。

 

そして自分を変えることができるのは、その自分自身ですらない。

 

自分を変えることができるのは、絶対的な魔法だけだと、カジはそう言った。

 

彼女と初めて出会ったのは、冬が明けて間もない2000年の、JR代々木駅のホームの端っこだった。

 

ー 待ち合わせは、午後一時に、代々木駅の山手線の内回りのホームでどう? ー

 

ー わかった、じゃあ午後一時に、代々木駅で。なにか目印があったほうがいいかな? ー

 

ー わたしは大丈夫、たぶんきみだってことが、すぐにわかると思う。きみもたぶん、すぐにわたしのことがわかるんじゃないかな、そんな気がする。ー

 

ー なるほど、じゃあきみの勘を信じて、代々木駅で。 ー

 

ー じゃあ、今日はもう真夜中だから、吸血鬼が出る前に、オチます。 おやすみ。 ー

 

ー そうだね、吸血鬼が出る前に、おやすみ。 ー

 

大学を卒業した年、まったく就職活動などというものをしていなかったぼくは、お世話になっていた教授の紹介で、ある大手の映像制作会社に契約社員として入社することになった。仕事のほとんどが、全国ネットのテレビ局のバラエティー番組に携わるものだったため、おおよそプラベートな時間などというもには無縁の、昼夜逆転は当たり前の不規則な生活、いや逆転どころか昼夜が一色に塗りつぶされたような規則も不規則もない、ただ理不尽に長時間な労働だけで埋め尽くされた生活を強いられる仕事だった。

 

番組ディレクターの執拗な嫌がらせ、モニターが見えないほどにタバコの煙が立ち込める編集室での終わることのない編集作業、毎日出前の蕎麦かラーメンかピザかの食事、睡眠時間がほとんどないため狂ったように突然襲ってくる荒々しい睡魔との戦い、わずかな休憩時間に交わされる会話の内容と言えば、地方取材の夜にホテルに呼んだデリヘル嬢がどんなだったとか、そこでどんな行為が行われたとか、あのアイドルの胸を生で触ってみたいとか、そんなものばかりだった。

 

ぼくはその会社を一年で辞めた。

 

どんなに理不尽に思えるような仕事でも、一年もやっていればそれなりに経験値というものが身に付く。その経験値獲得の幅にはもちろん人それぞれ、個人差はあるだろうけれど、残念ながら自分が望む望まないに関係なく、否応なしに経験値は蓄積されてしまう。普通に考えれば、経験値なんてたまればたまるほどいいものだと思うかもしれないけれど、決してそんなことはない。人間が身に付けるリアルな経験値は、ドラゴンクエストファイナルファンタジーの中で身に付けるバーチャルな経験値と、同じものではない。

 

ゲームの世界の中では、経験値を身に付ければ身に付けるほど、強くなったり、魔法が使えたり、勇気に溢れたり、仲間が増えたり、そして最後には世界が救えたりするだろう。けれど現実世界では、その経験値が時として鎖のようなものになってまとわりつき、身や心を苦しめ蝕むこともある。ぼくたちの経験値の量は、必ずしも自らの強さや優しさに比例しているわけではないし、ましてはや世界を救うことなんかには、まったくと言っていいほど、関係などないのかもしれない。

 

東京バーチャルリアリティ

 

会社を辞めたぼくは、渋谷にある小さな映画グッズの店でアルバイトをはじめた。求人雑誌の片隅に掲載されていた小さな広告枠には、「店舗の販売スタッフ募集、映画好きの人希望、週五日、土日祝日勤務可能な方、時給800円、海外輸入の映画グッズを仕入れ販売しているお店です。」と書かれていた。

 

実際に店を訪れてみると、映画グッズと言ってもほとんどは映画のパンフレットとポスターを扱う小さな店で、場所は松濤の一角にある三階建ての雑居ビルのような建物の二階だった。渋谷駅周辺の常軌を逸した喧騒からはだいぶ離れたとても静かな住宅街にあり、駅前のスクランブル交差点や道玄坂あたりのエリアに比べたらまるで別世界にいるようだったが、果たしてこんなところまで映画のパンフレットやポスターを買いに来る客がいるのかどうかという部分に関しては、いささか大きめの疑問符が浮かび上がった。

 

「こんにちは。面接に伺いました、白酒と申します。」

 

「あ、どうぞどうぞ、ようこそいらっしゃい。いまねイレイザーヘッドを観てたんですよ、いやあ何回観てもおもしろいねえ、これは。ささ、どうぞここのね、ソファーに座ってください。」

 

レジカウンターらしきものの正面に置かれた大きなモニターには、主人公が恋人の家の奇妙なディナーに招かれるシーンが流れていた。

 

 

 

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月白貉