蜩サマータイムブルース
ヒグラシの声が、聞こえる。
東京のど真ん中に住んでいた頃には、ヒグラシの鳴き声なんて、ほとんど聞くことはなかった。
ずいぶん昔のことだが、毎年毎年夏休みになると、家族で群馬県の水上温泉に旅行に出掛けて、数日間滞在していたことを、今でも時々思い出す。
早朝から川遊びに興じ、狂ったように野山を駆け回り、太陽に焼かれ、気が付けばあっという間に夕暮れ。
帰り道で聞こえてくる、ヒグラシの鳴き声。
あの気怠さと清涼感の、遠い日の記憶。
東京を去るちょっと前、一日中街を歩き、クタクタになって通りかかったのが、明治神宮の裏の、誰もいない車道。
鎮守の森の奥で、ヒグラシが、鳴いていた。
空を仰いで、子どもみたいな大声で、「わ〜、ヒグラシだ!」って叫んでいる自分がいた。
いつになってもぼくの原点は、あのヒグラシの鳴く、帰り道にある。
東京にひとりで暮らし始めて、しばらくたった頃、いろんなことに疲れ果てて、用もないのに実家に電話をかけると、今は亡き祖母が電話に出た。何を話したかは、もう忘れてしまった。でも最後にこう言われた。
「いつでも帰ってきてよ。」
陽が暮れたら、お家に帰ろうよって、きっと素敵なことがあるよって、ヒグラシはうたっているんだろうなあ。
月白貉