炭酸ウォーター
「今日は風が強いからさ、外に出て少し風に吹かれて来なよ。死にたいなんて気持ちも、もしかしたら吹き飛ぶかもしれないよ。風が強いから。死にたいって気持ちも、何処ぞの糞野郎がムカつく気持ちも、取り憑いた悪霊も、吹き飛ぶかもしれないよ。風が強いから。吹き飛ばしついでに、帰りにコーラ、買ってきてよ。」
店長に「死にたい。」なんて口走ったのは、ちょっとした弱音でしかなかったのだが、彼はぼくにそう言って、二千円札を手渡した。二千円札なんて今時珍しいし、ぼくは今まで一度も使ったことがなかったので、2016年の今でも二千円札が使えるのかと口に出して聞こうと思ったが、やはり止めることにした。
「すみません、じゃあちょっと外出て風に吹かれて、コーラ買って、すぐ戻ります。コカ・コーラで、いいですか?」
店長はパソコンの画面に向かいながらこちらを見ずに笑い、「いや、ペプシがいいな。ペプシのほうが甘いから。」と言った。
五年間付き合って、同棲までしていた彼女が、「もう一緒にはいられない。」と言って、一週間前に出て行った。少し前から、一緒にはいられないと思っていることは知っていた。彼女が出て行った後、数日間はまともに眠れなかった。部屋の中の空間の、彼女で埋められていた部分から、ポッカリと彼女がいなくなって、何もなくなって、その空間に入ると息ができないような気がした。一緒に寝ていたベッドの半分にも、同じように彼女の部分があり、その真空が日に日にベッドのぼくの部分にまで押し寄せて、最後には埋め尽くしてしまった。だから夜になって、空気のないベッドに横になっても、息ができなかった。
あまりにも苦しくて、一週間後に店長に短いメールを送った。「死にたいです。」と。
店長はぼくが大学生の時のアルバイト先の店長だった人物だが、今ではもうその店は辞めているし、大学を卒業したぼくもその店で働いているわけではないので、ぼくの働いている店の長(おさ)という意味合いは、すでになくなっている。アルバイト時代にずいぶんかわいがってもらっていて、仕事終わりによくお酒を飲みに連れて行ってもらうようになってから、プライベートでの付き合いが始まった。そして、それからもうずいぶんと長い時間が過ぎた。ぼくは三十になり、店長はもうそろそろ四十になる。彼は今、建設会社で営業をやっているということだったが、ぼくは今でも、彼のことを名前ではなく店長と呼んでいる。
彼が店長だったあの日々の、あの頃の思い出が、なんだかすごく大切なものだと、無意識に思っているのかもしれない。
彼の口癖は、「水なんて薄くて飲めないよな、炭酸ならまだいいけどさ。」という、意味不明なものだった。
月白貉