蜘蛛チカ【 第一話 】
駅前の不動産屋のウインドに貼られた物件情報を眺めていると、気になるキャッチコピーを見つけた。
「築40年 蜘蛛チカ 1LDK 風呂トイレ別 家賃三万五千円!」
コピーの文言の一部に疑問を感じて、ウインドに張り付くようにしてその物件情報に見入っていると、店の中から漆黒のスカートスーツに身を包んだ、異常なほどスタイルの整った女性がガラスの引き戸を開けて顔をのぞかせた。顔の容姿はそれほど目立ったものではないのだが、どこか海外ファッション誌の表紙で見かけるモデルのような雰囲気を持っていて、足が長いからそう見えるのかもしれないがやけにスカートの丈が短く、足にはサイドにレース柄の付いた黒のストッキングを履いている。
「お部屋、お探しでしたら中で伺いますよ。」
その女性がどうぞと言ってドアを大きく開き、店中に誘いこむように名刺を差し出したので受け取ろうとして手を伸ばすと、彼女は名刺を手渡す際に少しだけ意図的にぼくの指に触れたような気がした。彼女からは何かのフェロモンのような甘い匂いが漂っていて、少し気分が落ち着かなくなる。
名刺には「賃貸コーディネーター 主任」とだけ記されていて、名前は書かれていなかった。
「気になる物件がございましたか?」と言いながら彼女はカウンターの椅子を引いてぼくに座るようにと促すが、ぼくは立ったままの状態で話を切り出す。
「いや、あの、外の物件情報に、蜘蛛チカって書いてあるのは、あれはどういうことなのかと思って・・・。」
彼女はなにか物凄い悪巧みを思い付いたアニメのヒロインのような笑みを浮かべて、ぼくの顔のすぐ横に手を伸ばし、その物件情報の紙の方を指差した。ぼくは今度は頬を触られるのかと思って、ハッとしてその手を避けようと後ずさってしまった。
「あれ、ですよね。クモチカ。蜘蛛チカ物件は、当社が独自にそう呼んでいるレアな物件のことです。駅チカの意味はご存知ですよね、エキチカ。」
「駅チカは駅に近いってことですよね、最近だと駅の地下にあるショッピングエリアのことも駅チカって言うらしいけれど。」
「はい、蜘蛛チカもまあ、似たようなものです。蜘蛛に近いということです。そして部屋が地下にある物件でもあるのと、あともうひとつ理由があるのですが、まあそれは後ほどお話するとして、そのような要素を掛け合わせた造語で、蜘蛛チカなんですよ。」
「蜘蛛に近いって・・・?」
「昆虫の蜘蛛です。蜘蛛はその造形などから忌み嫌う人も多いですよね。よくファンタジー文学なんかには、邪悪な怪物として大きな蜘蛛が登場します、例えばトールキンの指輪物語とか。どうぞ、お座りください。」
ぼくがすこし躊躇しながらも店内の椅子に腰掛けると、事務所の奥の扉が開いてギギギと音を立て、八十代くらいに見えるこれまた漆黒のスカートスーツに身を包んだ老婆が、お盆に高そうな柄のティーカップをのせて「いらっしゃいませ、ようこそ。」と言いながら現れた。ファッションモデルとは打って変わって、マフィアの葬式にでも出席するような雰囲気だった。
「これはね、ジャボチカバのお茶ですよ、よろしかったら召し上がれ。アサミさんもどうぞ。」
「ジャボチカバ?」とぼくが小声で発すると、
「そうよ、ジャボチカバをご存じないのかしら?確かね、ブラジルの先住民族の、え〜と、何族だったか忘れたけれど、その人たちの言葉でね、亀のいる地という意味なのよ、この果物の名前は。何だかワクワクする名前だわね。そのまま食べてもいいけれど、ジャムとかね、あとはワインにもしたりするのよ、美味しいからどうぞ。」
アサミさんと呼ばれた主任の女性が「社長、いただきます。」と言ったので、老婆はどうやらこの不動産屋の社長のようだ。
「どこまで話しましたっけ、あ、そうそう、蜘蛛が忌み嫌われている、という話ですよね。古い文学にも出てくるくらいなので、昔から蜘蛛は人間に害を成すというイメージが強いんです。毒を持っていたり、足が八本あったり、目も八つあります。人間の容姿に比べて見ればモンスター的な要素が多いのでしょう。けれど、蜘蛛は一部を除けば、決して害のある生物ではないのですよ。あっ、社長、トゥピ族です。」
「あっ、そうだったわね、トゥピね、さすがアサミさんね、トゥピねトゥピ、忘れないようにしなきゃ。」
ブラジルの先住民族の名を何度も繰り返し唱えながら、社長と呼ばれている老婆は事務所の奥へと戻っていった。
月白貉