ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

かつて小泉八雲が自らの感覚で日本を歩きまわって見聞を広めたように、故郷を離れて旅を続けるぼくが、ぼくの感覚でその土地を歩き回って、見たり聞いたり嗅いだり触ったりした、ぼくの見聞録です。

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青空クリシュナムルティ

菌類を探して雑木林を歩く。

 

より周囲に目を凝らすために立ち止まったり、菌類を見つけて立ち止まったりするたびに、蚊の大群が金属製の笛のような羽音を鳴らしながら押し寄せ、体に集り、肌にしがみつき、皮膚に鋭い針を突き刺し、血を吸い、後に毒を残す。

 

二時間も三時間も、蚊の大群を振り払いながら、雑木林をひたすら歩き続ける。

 

毒を受けた腕や頬や首が醜く隆起してゆき、激しい痒みが身を襲う。

 

誰もいないと思っていた雑木林に、ふと人影を見つける。齢七十といったように見受けられる老人で、熱帯雨林のようにむせ返る梅雨時期の雑木林を、狐色の背広姿でうろついている。手には剪定用の古びて錆びついた鉄鋏とビニール袋を持ち、時折しゃがんでは何かを鋏で切ってビニール袋に詰めている。ふと違和感を感じて老人の足元に目をやると、老人は靴を履いておらず裸足だった。

 

「何をされているんですか?」

 

「はあ、きのこを探しています。あなたは?」

 

「ぼくもきのこを探しています。」

 

「そりゃあいい、ここはうってつけです。」

 

「そのきのこはなんですか?」

 

「これはね、グロテスクでしょ、コウタケです。」

 

「食べるんですか?」

 

「いいえ、食べません。」

 

「見て、採って帰って、また見ます。気が向けば食べます。今はわかりません。」

 

老人はふと空を仰いで、「今日も空は青いねえ。」と、そう呟いた。

 

老人と話をしている間にも、蚊の大群は容赦なく体にまとわりつき、血を吸い毒を残してゆくが、何故か老人の体には蚊は一切近寄ってゆかない。

 

痒みに耐え切れず、右手で腫れ上がった頬を掻きむしると、老人はこちらに顔を近付けて「蚊は空を飛びますからなあ。」と言った。

 

「あなたが単純になればなるほど、微細なものが偉大であることに気付くでしょう。では、ごきげんよう。」

 

老人はそう言い残して、雑木林の奥に消えていった。その言葉は、たしかインドの哲学者か何かの言葉ではなかったかとふと思ったが、すぐにそのことは忘れてしまった。

 

再びしばらく雑木林を歩きまわっていると、先ほどの老人が採取していたコウタケを見つけたので、老人のことを思い出して、あの老人と同じように何気なく空を仰いでみると、たしかに空は今日も青かった。だから老人と同じように「今日も空は青いねえ。」と呟いてみると、雑木林の奥から穏やかな笑い声が聞こえたような気がした。

 

蚊は空を飛ぶ羽を持ち、血を吸う鋭い針を持ち、さらには毒を持っている。

 

明日もまた、菌類を探して雑木林を歩くかもしれないし、明日は歩かないかもしれない。昨日、菌類を探して雑木林を歩いたかどうかは、もう忘れてしまった。

 

「人は過去からも明日からも自由でなければならない。」と、たしかインドの哲学者か何かがそう言っていた気がしたが、またすぐに忘れてしまった。

 

青空クリシュナムルティ

 

 

 

 

月白貉